に、天子の特別の思召で、博學鴻詞科――普通の科擧(常科)に對して、之を制科といふ――といふを開いて、天下非常の人材を召募したことがある。その成績を觀ると、矢張り南支那の人材が遙に北支那に優越することを立證する。康煕十八年即ち西暦千六百七十九年に擧行した制科は、一等二十人、二等三十人計五十人であるが、その貫籍を調べると、南支那の四十二人に對して、北支那は僅に八人に過ぎぬ。乾隆元年即ち西暦千七百三十六年の制科は、一等五人、二等十人計十五人で、その内譯は、南支那の十四人に對して、北支那は僅に一人を出して居る。南北文野の懸隔實に甚しい。
三
文化のみでなく、戸口・物力の上から觀察しても、南支那の開發の經路は、大抵同樣である。明代の『圖書編』や『續文獻通考』に據ると、天下の總戸數に對する南支那の戸數は、略左表の如き割合で増加して居る。
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王朝 年代 (西暦) 割合
西漢 元始二年 (二年) 十分の一
西晉 太康元年 (二八〇年) 十分の三
唐 開元二十八年 (七四〇年) 十分の四弱
北宋 元豐三年 (一〇八〇年) 十分の五
明 隆慶六年 (一五七二年) 十分の六
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右は支那全體――南北支那に四川等の西支那を加へたる――と、南支那との戸數の比例である。若し南支那と北支那との戸數を比較すると、西漢の元始時代に、北支那の九百萬戸に對して、南支那は約一百萬戸に過ぎざりしものが、北宋の元豐時代には、北支那の五百五十萬戸に對して、南支那は八百五十萬戸、明の隆慶時代には、北支那の三百四十萬戸に對して、南支那は六百七十萬戸を算する。
先秦から兩漢時代にかけて、繁華な大都會といへば、北支那に限つたもので、長安・洛陽は固より邯鄲《カンタン》(直隷省)、大梁(河南省)等、中々の景氣であつたが、南方の開發すると共に、揚州(江蘇省)、建康(江蘇省)さては杭州(浙江省)、蘇州(江蘇省)等、南支那の大都會の繁華が、次第に北方のそれを凌駕するに至つた。唐時代には揚一といふ諺がある。揚州の富庶全國に冠絶する意味である。南宋から元明時代にかけては、天上天堂、地下蘇杭といふ諺がある。蘇州と杭州との繁華が、天下第一に推された。北支那の諸都會は最早之に對抗し得なかつた。
物力に關
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