木版で骨牌を印刷し出し、更に進んで簡單な繪本などを印刷したのが、西洋の印刷の起源であると申す人もあります。ベルリン大學のグオルグ・ヤコブといふ人は、東洋と西洋と文化の關係を研究して居て「西洋に於ける東洋的文明の要素」といふ論文を公にしてをりますが、この人も矢張り印刷は支那が源で、それからして西域に傳はつて、西洋に參つたものであらうと申して居ります。兔に角印刷では、支那が世界の開祖と申して差支ない。
 それから活版の方になりますと、西洋の方で普通活版の發明者と云はれて居る、オランダのコスターやドイツのグーテンベルグなどの出たのは、十五世紀でありまして、支那で活版を發明した畢昇より四百年ばかり後の人であります。西洋の活版が、支那から影響を受けてはじまつたものであるや否は明白でない。今日ではこの關係を明かにするだけの歴史上の證據が見出されて居らぬ。併し支那の活版は、直接西洋のそれに影響せずとしても、世界に於て活版を最初に發明したといふ名譽は、當然支那人に歸する譯であります。
 次に印刷と親密の關係の有る、紙の話を申し述べようと思ふ。紙の發明も印刷の發明に劣らず、世界の文化に大なる關係をもつて居るのであるが、その紙の製造もまた、最初に支那人によつて發明されたのであります。支那で紙を發明したのは、東漢時代の蔡倫と云ふ人である。蔡倫以前には、木とか竹とか、又は帛などに書寫したのであるが、木や竹は重量も重く、持ち運に不便で、帛は價不廉で、皆實用に適しませぬ。そこで蔡倫が色々と工夫して、遂に樹皮・麻屑・敝布《ふるぎれ》などを原料として、今日の所謂紙を造つた。是が普通謂ふ所の紙の製造の起源であります。丁度東漢の第四代目の和帝の元興元年(西暦一〇五)のことであります。今日世界に現存してゐる一番古い紙は恐らく西晉の武帝の泰始六年(西暦二七〇)及び元康六年(西暦二九六)のデートのある古寫經であらうと思ふ。これらは支那で紙が發明されてから、僅々百七八十年後のもので、前者は英國のスタイン博士が敦煌方面で發掘した一小紙片で、後者は西本願寺から派遣した中央アジア探檢隊が、新疆から持ち歸つた寫經である。
 所が西域の方では、その當時書寫の材料として使用したのは、パピルス即ちカヤツリ紙か、または獸皮を滑した革紙即ちパルチメントであつた。支那の唐の中頃、西暦の八世紀の半頃までは、西域でも歐洲でも、今日謂ふ所の紙の製造法を知らずに、ひたすら不便極まるパピルスや革紙を使用して居つたのであります。
 西暦八世紀に有名な唐の玄宗の時代になると、かのマホメットの建てたサラセン國、即ち唐でいふ大食國と唐との間に戰爭が起りまして、二國の軍隊が中央アジアの怛邏斯《タラス》といふ處で戰爭をした。此時に唐の方が敗けて、澤山の支那兵士が捕虜となつたが、この捕虜の中に唐の紙漉《かみすき》職工がありましたから、サラセンの大將は、この紙漉職工を使役して、中央アジアのサマルカンドといふ都で、初めて製紙工場を建て、其所で支那風の紙を製造することに着手した。是が唐の玄宗の天寶十載すなはち西暦七百五十一年のことで、サラセン國に紙の製造の傳はつた起源であります。これまでの革紙などに比較すると便利で、價格も低廉であるから、需要は日を逐うて増加いたし、サラセンの領内のアラビア、ペルシア、スペイン、エジプト、シリヤ地方で、支那紙の製造工場が、どしどし開設される。製造業の勃興につれて從來のパピルスや革紙などは次第に勢力を失つたは勿論、この頃まで矢張り不便な、パピルスとか、革紙とかを使用して居つた西洋諸國へ、このサラセンで製造された紙が段々と輸出されました。そこで西洋の方でもパピルスや、革紙は次第に勢力を失つて、十四五世紀になると、歐洲でも製紙業が發達し、印刷術の應用と並んで、近世文明の發達を促がす大原因となつたものである。この紙の歴史については、私は京都大學から出て居る『藝文』と云ふ雜誌に、可なり詳しく述べて置きましたから、此處では極めて大略のみを紹介した譯であります。
 〔次に遠洋渡航に尤も必要である羅針盤も、先づ支那で發明されたものらしい。實は羅針盤の發明や傳播の歴史は、まだ十分に研究されて居りませぬ。しかし今日まで知られた確實な文獻によると、支那では西暦十一世紀の末か、十二世紀の初に、既に航海に羅針盤を使用して居るが、アラビアや歐洲方面では、約百年後の十二世紀の末か十三世紀の初に、羅針盤の使用が見えて來るといふ。東西傳播の經路は未だ明瞭ではないが、今日の處では兔に角東洋方面で、より早く羅針盤が使用されて居つた事實は承認せなければならぬ。當時アラブ人は、東西兩用の間に、盛に海上交通を營んで居つたから、このアラブ人の媒介で、羅針盤の使用が、東洋から西洋へ傳播したものかと、想像すべき餘地が多い樣であります。〕
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