述べた通り、唐時代から佛典は隨分盛に印刷されて居りますが、次の五代時代からは、佛典の外に儒書が印行される。更に次の北宋時代になると、『史記』だとか、『漢書』だとかいふ歴史物も段々に印刷されて來る。併し其頃までの印刷は、寺か或は政府でやるのが普通でありましたが、北宋の終から南宋の初頃にかけて、丁度西暦十二世紀になると、初めて坊間に書物屋が出來て、どしどし書物を印刷して販賣することになりました。以上が支那に於ける印刷發展の順序であります。
 この印刷と關聯して考へられるのは、活版即ち活字版で、これは普通の木版の印刷よりも一層便利で、一層世界の文化に貢獻したものであります。この活版も矢張り支那人によつて發明されたので、即ち北宋の仁宗の慶暦年間(西暦一〇四一―一〇四八)に、畢昇《ヒツシヨウ》と云ふ人が發明したのであります。この事はその當時の記録に明かに載つて居つて、確な事實であります。この支那のグーテンベルグとも申すべき畢昇の發明した活字は、粘土に膠を加へて乾し固めて作つたもので、印刷する時には、先づ平扁なる鐵の板の上に、蝋若くは松脂など、容易に溶解する物質を布き、其上に土製の活字を列べて、鐵板の下を火で熱するのである。すると火の熱で以て蝋なり松脂が溶けた時機を見計らつて、さきの鐵板と平行して、他の鐵板で活字の上を壓して、活字の面を水平にして印刷するのが、當時の方法であります。木で作つた活字も其當時出來て居つたが、銅とか鉛とかの金屬製の活字は、當時の記録に見えませぬ。ずつと後世の記録に始めて載せてあります。この金屬製の活字のことは、支那の記録よりも、却つて朝鮮の記録に早く見えて居ります。朝鮮へ活字の傳はつたのは、何時代のことか分りませぬが、高麗時代に丁度西暦十三世紀の半頃になると、立派に金屬で作つた活字があつて、これで書物を印刷してゐる。この金屬製の活字のことを、其當時高麗では鑄字と申しました。十三世紀の半頃に、李奎報といふものが作つた『詳定禮文』の跋によると、當時鑄字を用ゐて、この書物を二十八部印行したことが記載してあります。降つて朝鮮時代すなはち李朝時代となると、この活字の使用が益※[#二の字点、1−2−22]開けて、殊に李朝三代目の太宗は、銅製活字數十萬を鑄造させて居ります。朝鮮人は銅製活字は朝鮮人の發明だと自慢して居るが、いかにも記録の上から見ると、左樣な結論にもなるが、私の想像では、金屬製活字も矢張り支那で最初に發明されたものであるが、不幸にしてこの事實が支那の記録に傳らぬのであらうと思はれます。朝鮮人ではそんな發明はちよつとむづかしいかと考へますが、併し是は勿論斷定は出來ませぬ。所が朝鮮の活字が日本の文禄の役に分捕物になつて日本に傳はつて、慶長・元和時代の印刷に利用せられて、我が國の文運に貢獻したことは御承知のことで、事新しく茲に申し述べる必要がありませぬ。
 以上は東亞に於ける印刷の歴史の大略でありますが、これを引き詰めて申すと、
 (1)木版は後くも西暦の八世紀の半頃に立派に出來て居つた。
 (2)活版は西暦十一世紀の半頃に發明された。
 (3)金屬製の活字も、後くも西暦十三世紀の半頃には、東洋で發明されて居つた。
斯う云ふ結論になる譯であります。
 西洋の印刷の歴史は、遙に東洋のそれに後れて居ります。西洋の印刷の歴史は西暦十四世紀以後に限ります。今日西洋に現存して居る古代印刷の標本も、十五世紀以前のものはないといふことであります。その以前西洋では、皆書物を手寫したのであります。それで兔に角印刷は西洋の方が東洋より後れて居ることは疑ふべからざる事實であるが、それでは印刷術は東洋から西洋に傳はつたのであらうかと云ふと、隨分六ヶ敷い問題で、つまり今日では、確たる證據がないのであります。ある一部の學者は、西洋の印刷は支那の影響を受けて起つたものだと申して居ります。それは十三世紀に出た有名なマルコ・ポーロと云ふ人が、久しく支那に參つて居つて、十三世紀の末に本國のイタリーで、丁度浦島の龍宮歸りのやうな有樣で歸りました。非常な評判であつて、澤山の人々がマルコ・ポーロを訪問する。マルコ・ポーロが東洋から持つて來た土産物の中に、當時元で盛に使用した紙幣があつた。此紙幣は無論印刷したものでございます。元の前に國を建てた女眞の金でも、矢張り印刷した紙幣を使用して居ります。今日世界に現存して居る紙幣で一番古いのは、金の貞祐年間(西暦一二一三―一二一七)に發行された紙幣であらうと思ひます。勿論これも印刷されたものであります。丁度マルコ・ポーロより八十年餘り前のものであります。この時代に西洋に紙幣のある筈はありませぬ。そこでマルコ・ポーロを訪問して、この印刷した紙幣を見た人々は、誠に珍らしいことにいたし、この紙幣の印刷から思付いて、イタリー人が
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング