るが、私の想像では、金屬製活字も矢張り支那で最初に發明されたものであるが、不幸にしてこの事實が支那の記録に傳らぬのであらうと思はれます。朝鮮人ではそんな發明はちよつとむづかしいかと考へますが、併し是は勿論斷定は出來ませぬ。所が朝鮮の活字が日本の文禄の役に分捕物になつて日本に傳はつて、慶長・元和時代の印刷に利用せられて、我が國の文運に貢獻したことは御承知のことで、事新しく茲に申し述べる必要がありませぬ。
以上は東亞に於ける印刷の歴史の大略でありますが、これを引き詰めて申すと、
(1)木版は後くも西暦の八世紀の半頃に立派に出來て居つた。
(2)活版は西暦十一世紀の半頃に發明された。
(3)金屬製の活字も、後くも西暦十三世紀の半頃には、東洋で發明されて居つた。
斯う云ふ結論になる譯であります。
西洋の印刷の歴史は、遙に東洋のそれに後れて居ります。西洋の印刷の歴史は西暦十四世紀以後に限ります。今日西洋に現存して居る古代印刷の標本も、十五世紀以前のものはないといふことであります。その以前西洋では、皆書物を手寫したのであります。それで兔に角印刷は西洋の方が東洋より後れて居ることは疑ふべからざる事實であるが、それでは印刷術は東洋から西洋に傳はつたのであらうかと云ふと、隨分六ヶ敷い問題で、つまり今日では、確たる證據がないのであります。ある一部の學者は、西洋の印刷は支那の影響を受けて起つたものだと申して居ります。それは十三世紀に出た有名なマルコ・ポーロと云ふ人が、久しく支那に參つて居つて、十三世紀の末に本國のイタリーで、丁度浦島の龍宮歸りのやうな有樣で歸りました。非常な評判であつて、澤山の人々がマルコ・ポーロを訪問する。マルコ・ポーロが東洋から持つて來た土産物の中に、當時元で盛に使用した紙幣があつた。此紙幣は無論印刷したものでございます。元の前に國を建てた女眞の金でも、矢張り印刷した紙幣を使用して居ります。今日世界に現存して居る紙幣で一番古いのは、金の貞祐年間(西暦一二一三―一二一七)に發行された紙幣であらうと思ひます。勿論これも印刷されたものであります。丁度マルコ・ポーロより八十年餘り前のものであります。この時代に西洋に紙幣のある筈はありませぬ。そこでマルコ・ポーロを訪問して、この印刷した紙幣を見た人々は、誠に珍らしいことにいたし、この紙幣の印刷から思付いて、イタリー人が
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