、英人も之を抑壓するに頗る困難を感じた。そこで日英同盟によつて、日本の勃興を助けた英國の政策は、果して英人の利益であつたであらうかと、同盟の價値に就いて疑惑を挾む者も出來た程である。佛領後印度にも、同樣不安の状態が起つた。フランスがこの地方を占領して以來、日露戰役直後ほど、安南人の人氣の荒立つたことはないと傳へられて居る。
このアジア人のアジアといふ思想の勃興には、アジアに領土を持つて居る白人一同に閉口した。彼等は日本人がやがて黄人種の先達となり、黄人種の大同團結を作つて、白人驅逐を試みるであらう。多數の黄人に少數の白人では、その結果恐るべきものがある。過去に於て白人が黄人に壓迫征服された場合が多い。かかる時代が或は再出するかも知れぬとて、今迄見縊り過ぎた反動で、實際以上に黄人に對して警戒を加へることとなつた。
アジア人の中でも、支那人が一番覺醒して來たかの如く思はれた。日清戰役後支那人の間に、變法自強といふ新機運が開けて、事毎に日本を模範とすることとなつたといふ條、彼等は未だ十分に日本の實力を理會せなんだ。日本は東洋でこそ強國であるが、世界の舞臺に出ては、とても歐米列強と肩を並べられぬもの、まして露國に對しては、足許へも寄られぬものと信じて居つた。所が日露戰役で、日本が彼等支那人の間に、世界第一の強國と確信されて居つた露國を打ち倒したのであるから、彼等は今更ながら、日本の國力の強大なるに驚嘆し、愈※[#二の字点、1−2−22]變法自強の急務なることを自覺した。日露戰役後に於ける支那の革新は、隨分目覺しいものであつた。日本は立憲國で勝ち、露國は專制國で負けた。中國も日本の如く立憲制を採らねばならぬとて、やがて立憲の準備にかかる。日本は國民一致して勝ち、露國は國民雜多にして一致を缺きし故敗れた。中國も滿・漢の區別を撤廢せなければならぬとて、やがて均平滿漢の上諭――滿漢の區別を撤廢せんとする試は、日露戰役前から幾分行はれて居つたが――が發布された。其他學校教育の普及とか、新式陸軍の増加とか、すべて此等の革新的計畫は頗る大袈裟で、然も直間接に多く日本人の補助を受けたのであるから、尠からず歐米人の耳目を聳かさせた。彼等はアジア人の覺醒を重大視する餘り、盛に黄禍論を唱へ出した。
黄禍論は勿論日露戰役以前から、已に白人間に唱道されて居つた。黄禍といふ文字も、日清戰役の頃から使用されてをつた。日清戰役の終期、三國干渉の起らんとする前後に、ドイツのカイゼルからロシアのツアールに贈つた一幅の寓意畫――東洋の佛教國の前進を、耶蘇教國が一致して防禦せんとする――の標題が黄禍であつた。この時以來黄禍といふ文字は、盛に使用されることとなつたが、實際の處當時日本は三國干渉の爲に大頓挫を受けて居る。支那は日清戰役の敗亡に續いて、列強から要害の地を租借せられ、或は擧國瓜分の厄に罹らんとする形勢であつた。黄禍といふ文字こそ新聞・雜誌又は書物に疊見すれ、當時眞面目に黄禍の實現を信じた人は、甚だ多くなかつた樣である。黄禍論は畢竟一種の杞憂に過ぎずと見做されて居つた。所が明治三十七八年の日露戰役後から、黄禍論は始めて世界的問題となり、歐米人も眞面目にこの論に耳を傾くることとなつた。
等しく黄禍論といふ條、或は日本を問題の中心とする者もある。或は支那を黄禍の中心とするものもある。或は經濟の方面より觀察を下すものもある。或は軍事の方面より觀察するものもある。解釋の仕方は一樣ではないが、そは兔に角、アジア人の覺醒と共に、黄禍論の重大視さるるに至つたのは、爭ふ可らざる事實である。而して此等の事實は、東洋史は勿論、世界史の上より觀ても、稀有の大事件といはねばならぬ。
以上數へ來た五項のうち、どの一項をとつても、國史上空前の大事業で、又東洋史上、否或者は世界史上より觀ても、稀有の大事件である。然るに此等の大事業大事件が、明治一代、殊に最後の二十年の間に、成し遂げられたのであるから、世界を擧げて、明治時代に於ける日本の發展を神業とし、奇蹟とするのも、無理ならぬ次第である。
七
我が日本人は顯著なる二つの國民性をもつて居る。一つは皇室に對する忠義心の厚いこと、即ち忠君、今一つは國權擁護若くは擴張の念の強いこと、即ち愛國である。忠君・愛國の二精神は、わが建國以來の歴史を一貫して居る。愛國の方は對外硬の精神となつて表はれて居る場合が多い。名實共に獨立の體面を毀損せぬことが、立國第一の必要條件となつて居る。先づ支那に對しては既に申述べた如く、隋・唐と交通開始の當時から、對外硬といふ主義を發揮して居る。我が國と外國との間に往復すべき、國際文書に關する慣例を書いたものに、異國牒状事といふ文書がある。前田侯爵の所藏で、史學會から發行された『征戰偉蹟』の中に收められ、和田英松氏がこの文書に解説を附けて居る。これは朝廷の御威光の衰へ切つた、足利時代の初期に出來たものであるさうだが、これにも支那から、天子又は皇帝等同等の稱號を用ゐてある文書を送れば、受取るけれど、國王など書いた文書は、決して受附けぬ。受取つても返事を出さぬが慣例となつて居る。世界を統一せん勢あつた蒙古に對してすら、我が國では對等の位置を固守して、一歩も讓らない。弘安の役は之が爲に起つたともいへる。
乃木大將と共に有名になつた『中朝事實』といふ書物があるが、之は山鹿素行先生の著で、中朝とは我が日本を指したものである。又水戸藩で編纂した『大日本史』には、支那を諸蕃傳に列してある。古來支那以外の東亞の國で、中朝と稱したものはない。支那を諸蕃扱にしたものは、尚更見當らぬ。併し日本人の立場からいへば、支那が中國と稱する以上、日本も中朝と稱すべきである。支那の歴史に日本を東夷傳に入るる以上、日本の歴史に支那を諸蕃傳に列して、不思議はないのである。一寸とした書物の標題や體裁にまで、對外硬の主義を發揮して居る。
朝鮮に對してはさきに述べたるが如く、神功皇后の御雄圖も、欽明天皇の御世前後に衰へて、朝鮮に於ける我が宗主權は一旦失はれたけれども、以前の關係から、我が國では決して朝鮮と同等の交際はいたさぬ。例の異國牒状事に據ると、朝鮮と日本との關係が絶えた後でも、日本の君主は天皇、朝鮮の君主は王と稱すべき慣例で、この慣例を無視した文書は、我が國で受取らぬこととなつて居る。この考が始終日本人の腦裡に殘つて居る。徳川時代に國學が盛になつてから、日本の古代の歴史が研究されると共に、この考が一層強きを加へる。明治維新後、朝野の大問題となつた征韓論も、ここに間接の關係を有することと思ふ。
歐米諸國に對しても、徳川幕府の訂結した不對等條約は、その當時から國論を沸騰せしめた。明治の御世に入つても、この不對等なる條約を改めて、國權を擁護することは、擧國一致して熱望した所で、維新以後の外務卿、若くは外務大臣にとつて、條約改正問題は、常にその暗劍殺となつて居つた。
所が明治の發展によつて、此等新舊の懸案は、皆立派に解決されて居る。日清戰役を界として、日本と支那との位置は轉換し、支那はわが國の下風に甘ずることとなり、日露戰役後は、我が國は世界の一等國に列し、幕末以來引繼いで來た、不對等條約も、この二大戰役の間に於て、大體我が國人の希望の如く改正せられ、朝鮮は明治四十三年八月に、わが國に併合された。建國以來我々の祖先が絶えず心に掛けて來た、國權の擁護又は擴張は、ここに完全に實現された譯で、祖先の神靈も定めて滿足を表して居るに相違ない。
尚又我々が國史を讀んで、神功皇后の御世や、豐太閤の時代に、我が國力の大陸に發展したことを想ふと、實に愉快に堪へぬが、此等の發展に幾十百倍した明治の御世の大發展を、我々の子孫が、遙か後世から如何に愉快に眺めるであらう乎。明治の發展は、ただに現代の我々のみに幸した許りでなく、我々の祖先もその慶に頼り、我々の子孫もその徳に浴する譯である。是の如く考へると、我々明治時代に遭逢した者は、實に開闢以來の果報者といはねばならぬ。
八
明治時代の發展に遭逢すべき幸運を持つた我々は、同時にこの折角の發展を挫折せしめざるべき、否一層之を助長せしむべき大責任を有することは申す迄もない。然もこの責任を果すことの容易でないことも亦自覺せねばならぬ。明治天皇御崩御後間もなく、英國の『タイムス』は、その紙上に、日本の新時代の困難といふ論文を掲載して、主として將來我が國民の精神問題に關して、容易ならざる困難の横たはれることを指摘した。ただにこの精神問題ばかりでなく、我が國民の前途には、種々の困難の存することを知らねばならぬ。米國の前大統領ルーズヴェルト氏は、嘗て次の如きことをいうた。
[#ここから2字下げ]
地中海は曾て列國競爭の舞臺であつたが、新大陸發見と共にその時代は過ぎ去つた。之に代つた大西洋時代は、今日已にその絶頂に達し、やがて、衰微すべき運命を持つて居る。次に來るのは太平洋時代で、今や列國の競爭はこの新舞臺に移りつつある。この競爭は前二者に比して、遙に激烈であらう。
[#ここで字下げ終わり]
太平洋の近く世界の競爭場となるべく、太平洋問題が二十世紀の大問題たることは、識者の多く一致する所である。太平洋裡に國して居る日本人は、大發憤をせなければならぬ。明治天皇の御製に、
[#ここから2字下げ]
四方の海皆同胞と思ふ世に、など風波の立騷ぐらん。
[#ここで字下げ終わり]
とある如く、我々は平和主義を尊重し、四海同胞主義を固守するとしても、何時風波が起らぬとも限らぬ。一旦風波が起れば、必ずその中心に當るべき太平洋裡に國して居る我々日本人は、不斷の用意だけはして置かねばならぬ。
吾が輩は大正の年號について、一個の解釋を有して居る。今囘もこの大正の年號の解釋を其儘、我が國民將來の方針に應用したいと思ふ。大正の字面は『易』の大畜の卦から出て居る。大畜の卦に、
[#ここから2字下げ]
大畜剛健篤實、……日新[#二]其徳[#一]、……能止健、大正也。
[#ここで字下げ終わり]
とある。大畜の卦は元來乾下艮上大畜とも、山天大畜ともいひ、天を代表する乾と、山を代表する艮との二單卦を重ねたものである。乾の卦は陽爻(※[#易の陽爻、横長の矩形一つ、562−17])のみより成立して居る故に、至健至剛である。乾は又健と通ず。乾の象は天である。天は四時の別なく絶えず運行して居る。故に天行健といふ。乾は要するに一日も油斷なく進取する義がある。日新[#二]其徳[#一]といふのはこの事である。[#図1、大畜]艮の卦は弱柔な陰爻(※[#「易の陰爻、陽爻を半分にしたものを二つ横に並べた形」、563−2])の上を、剛健なる陽爻が抑へ付けて居る。從つて内に抑へて外に出ささぬから、艮に止《とどむる》の訓がある。艮の象は山である。山は萬物を貯藏する處である。艮は要するに物を保存する義をもつて居る。乾と艮とを合せた大畜の卦には、他の善き所を採り、我が善き所を守りて、實力を蓄積すべき意味が含まれて居る。是故に大正とは、一面力めて世界の新知識新文化を求めて、これ日も足らざるが如く努力しつつ、一面では我が國古來の善美なる國體・國粹を保存し、此の如くして大に國力の充實鞏固を圖る意味である。
我が國粹を保存しつつ、外國の文化を採用することは、わが國過去千幾百年の長い歴史を通じて、絶えず實行されて居つて、決して新しい主義でない。そこで和魂漢才といふ言葉がある。菅公の頃から始まつた言葉であるが、この主義は菅公以前から夙に實行され、明治の御世となつては、同じ和魂洋才主義が實行された。
國家も生物と同じく、適者が生存するのである。我が國が建國以來連綿として今日に至るまで、常に適者の位置に立つことが出來たのは、和魂漢才若くは和魂洋才主義の御蔭である。大正の新時代も、やはりこの主義を遵奉するのが安全である。我が國の過去の歴史を觀れば、將來採るべき方針も、自然に理會されるのである。歴史を鑑といふのは是處のことで、温故知新は此の如くして活用すべきである
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング