へ輸出されることとなつた。流石《さすが》因循姑息の支那も、日清戰役の大打撃に目を覺まし、變法自強の語が朝野を風靡し、すべての革新は日本を手本とすることとなつた。制度・文物・學術・教育等、皆日本のそれを輸入する。たとひ歐米の文明や文化でも、一度同文同種の日本を經由したものを採用するのが、歐米から直接輸入するより、危險少くて便益多しといふのが、支那人多數の意見であつた。そこで夥多の留學生をも送れば、幾多の日本教習をも迎へる。一時わが國へ來た支那留學生の數は萬を超え、彼地に傭聘された日本教習の數は、五百以上もあつた。
 漢字すら日本から逆輸入した方が歡迎される。團體・代表・膨脹・舞臺・社會・組織・機關・犧牲・影響・報告・困難・目的・運動等の文字は、支那の新聞や雜誌に普通に散見するが、此等の熟字は何れも日清戰役後に、日本から輸入されたものである。保守的な支那人は、かかる雅馴ならざる熟字を排斥せんと計畫したこともあるが、すべて無效であつた。支那人の中には更に進んで、株式とか手續とか、組合とか取締とか黒幕などいふ、恐れ入つた熟字迄も使用する者がある。此等の所謂新名詞は、最初日本から歸つた留學生など
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