x暦の名譽を發揮するには、この時機を逸してはならぬと考へ、開元六年(西暦七一八)に印度暦を漢譯して九執暦を公にした。九執とは梵語 〔Navagra^ha〕 の意譯である。Nava とは九といふ數で、〔Gra^ha〕 の本來の意味は「執へる」又「掴へる」ことであるが、同時にその本義を延ばして曜《ほし》をも意味する。曜は人間の運命を掴へて支配するといふ考から、曜をも 〔Gra^ha〕 と稱するのである。印度の天文は日・月・水・火・木・金・土、其他の都合九個の 〔Gra^ha〕 を本とするから、その暦を九執暦又は九曜暦と稱したものと思ふ。
 かくて玄宗の開元六年に印度の天文學者の瞿曇悉達が改暦の參考に供すべく、九執暦を漢譯すると、更にその翌年の開元七年(西暦七一九)に中央アジアの吐火羅(Tokhara)國の王が、唐改暦の噂を聞き傳へたと見え、天文學に堪能なる其國の僧侶を長安に送つて、改暦の手傳ひを願ひ出てゐる。また同じ年に今のアフガニスタン地方に當る迦畢試(Kapisa)國の政府からも、天文に關する文獻を唐の朝廷に送呈して居る。兔に角唐の朝廷で改暦の議が始まると、中央アジアのイラン(波斯)系
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