れが我國に新式鐵砲即ち鳥銃傳來の濫觴である。時堯はこの功勞によつて、去る大正十三年に正四位を贈られた。ピントはその後再三我が國に渡來したが、一五四七年に第二囘の來航の時、鹿兒島から二人の日本人を伴ひ、マラッカで東洋傳道の目的で來合せた、有名なザヴィエル(Francis Xavier)の手許に委託した。ザヴィエルはやがて天文十八年(西暦一五四九)に、この日本人の一人を案内者として我が鹿兒島に來て、傳道を始めた。かくて十六世紀の半頃から我が國に於ける歐洲人の傳道や通商が開始されるのであるが、歐洲人が我が國に來航後の宗教、經濟、藝術等に關する諸問題は、他の講師方が既に講演され、また今後講演されるはずであるから、私は唯我が國が歐洲諸國と通交を開くまでに、如何なる風に世界に知られて居つたかといふことを、大略紹介いたしたのである。

 私は今この講演を終るに際して、その結論として一言を申添へ置きたい。我が國は最初は朝鮮を通じて、大陸の文化を輸入し、ついで支那を通じて、支那固有の文化は勿論、印度や西域の文化をも輸入し、最後に歐洲諸國と交通して、西洋の文化を輸入したが決して此等諸種の文化を、漫然と無批
前へ 次へ
全42ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング