らぬ。慶長以前に於ける我が國の金銀流出に關する材料が乏しいから、精確な數字を示すことは出來ぬが、流出額の莫大なる事だけは疑を容れぬ。それで當時のポルトガル人の極東通商根據地のマカオ港は、日本から持ち來れる多量の金銀の置場に困る程で、街道に銀を鋪き詰める程であつたと、十七世紀の後半に出た旅行家などは、回顧的記事を傳へて居る。慶長十四年(西暦一六〇九)からオランダ人が我が國に通商を開き、次第に發展して遂に我が國との通商權を專有するに至るが、このオランダ人も我が國から相當多量に金銀を海外に持ち出した。最初に銀を後に金を輸出した。ヒルドレス(Hildreth)の日本史に、十六世紀の半頃から十八世紀の半頃に至る約二百年間に、日本から海外に流出した金銀は、二億弗以上に達すべしと推測して居る。マルコ・ポーロのヂパングには金銀が無量に存在するといふ傳説と、開國後日本から年々多額の金銀が流出するといふ事實と相待つて、十七世紀の後半期頃まで、我が國は依然として歐洲人から、世界で金銀の産出の多い寶の島であると認められて居つた。彼等の間には日本の奧州の東北海中に、金島と銀島があり、この金島銀島から日本人はその
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