が國人よりも早く新式鐵砲の效能を承知して居つた筈であるが、例の保守的氣質で、我が國人の如く熱心にこの新武器を歡迎せなかつた。故に文禄征韓の頃になつても、舶來の新式鐵砲は、中々支那内地に行渡つて居らぬ。殊に朝鮮に出掛けた北支那遼東方面の明軍などは、朝鮮人以上に新式鐵砲の使用に不案内であつた。それで朝鮮人も明人も、皆我が軍の新式鐵砲に辟易して居る。
當時日本軍の戰術は、一番先に鐵砲でドーンとやる。かくして敵を威嚇して置いて、向ふが驚いてうろうろする間に、日本刀で斬り捲くる。これが日本軍の戰術であつた。それで支那人や朝鮮人の書いた、この時代の記録を見ると、何れも日本の鐵砲と刀とこの二の武器に非常に閉口して居る。文禄征韓の役に我が軍が勝利を得た原因は、種々あるであらうが、この新式鐵砲を利用したことが、確にその主要なる原因の一と認めねばならぬ。三百年前の弘安の役には、日本は蒙古高麗聯合軍の爲に、舊式の鐵砲で散々に苦しめられたが、三百年後の文禄の役には、竹篦返へしに、新式の鐵砲で明と朝鮮の聯合軍を散々に打ち破つた。鐵砲で受けた苦しみを鐵砲で首尾よく仕返しをしたといふ譯である。これも畢竟我が國人が
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