間に、前人未知の新大陸の存在することなどは夢想もせなかつたから、彼の到着した土地は無論アジアの東端で恐らくマルコ・ポーロのヂパングであらうと確信して居つた。コロンブスは一五〇六年に死去するその時まで、依然として、自分は西廻航路によりアジアの東端に到着したものと確信して疑はなかつた。單にコロンブスのみでなく、當時の歐洲人は一般に同樣で、スペイン人が到着した新土地(Terra Nova)は、即ちマルコ・ポーロのヂパングと信じて居つた故に、十五世紀の末期から十六世紀の初期にかけて、歐洲人の作製した世界地圖には、すべてヂパングといふ國名を記載してない。これはスペイン人の發見したといふ新土地と、ヂパングとを同一と見做したからである。その後この新土地とヂパングとは、各個別々のものと認められてからも、ヂパングは新土地の東海岸に極めて接近して地圖上に表現され、新發見地の今のアメリカに屬するメキシコ(Mexico)等の名稱は、アジア大陸の一部の如く表現されて居る。所が東廻航路をとつたポルトガル人は既に支那の東南海岸を極め、ついでマルコ・ポーロの所謂ヂパングたる日本に達しアジア大陸の東端の状形が次第に明瞭となると共に、スペイン人の發見した新大陸と、アジア大陸の東部との混同も次第に改正されて、十六世紀の後半期に作製された世界地圖には、新大陸及びアジア大陸の位置、及び日本の位置も、ほぼ實際と大差なく表現される樣になつた。
十六世紀の半頃からポルトガル人が我が國へ渡航して來るが、彼等は我が國をジャパン(Japan=Japao)と呼んだ。ジャパンはヂパングのヂパン同樣に、日本といふ國號の支那音で、ポルトガル人は直接に支那人からか、又は間接にマレー人を通じて、我が國號を傳へ聞いたものと想はれる。ポルトガル人はこのジャパンを、位置から觀ても、名稱の類似から觀ても、殊にその金銀の多量なる點から觀ても、マルコ・ポーロの所傳のヂパングに相違ないと信じた。
金銀の多量といふのは、丁度ポルトガル人が我が國に通交を開く頃は、我が國の金銀の最も多量に産出しかけた時代であつた。丁度戰國時代のこととて、諸方に割據せる群雄は、各自の財政を豐にすべく鑛山發掘を奬勵いたし、天下統一の後も秀吉や家康はこの奬勵を繼續した。故に天正時代から慶長元和時代にかけての頃、即ち十六世紀の後半から十七世紀の前半にかけての五六十年間
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