ヲ[#「にんべん+同」、第3水準1−14−23]の『來齋金石考略』卷下には、明の崇禎年間(西暦一六二八年乃至一六四四年)に、長安在住の官吏が、その幼童の死骸を埋葬すべく、長安の崇仁寺(金勝寺)附近の地を掘り下げて、この古碑を發見したと傳へて居る。
(第三) 明末の陽瑪諾の『唐景教碑頌正詮』の序には、この碑の發掘の次第を述べて、
  大明天啓三年(西暦一六二三)關中官命啓[#レ]土。于[#二]敗墻下[#一]獲[#レ]之。
と記してある。
 以上三説の中、第一第二の所傳は、年代も漠然で、採るに足らぬが、獨り第三の陽瑪諾の所傳のみは、幾分の注意を價する。陽瑪諾は洋名をディアズ(Emmanuel Diaz)といひ、景教碑出土の當時、浙江省杭州府に居つて、宣教師の中では、尤も早くこの碑の拓本を見得た一人である。彼は明の崇禎十七年(西暦一六四四)に、漢文で景教碑を解釋して、『唐景教碑頌正詮』と名づけ、杭州府の天主堂で出版したが、その序文に上述の如く、景教碑出土の年代を天啓三年と明記してある。この三年は或は五年の訛かとも疑はれるが、併し當時耶蘇會の出版は鄭重を極め、必三次看詳、允[#レ]付[#レ]梓
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