ャ買@ンヌ(Chavannes)教授や、ロシアのアレキシェーフ(Alexieff)教授が、西安を探訪した筈だが、不幸にして景教碑の移轉といふ大事件に遭遇し得なかつた譯である(44)。
 ホルム氏は十月三日に、重量二|噸《トン》の模造碑を特別製の馬車に載せて、金勝寺から鄭州へ送り出した。ホルム氏自身は三日後くれて、十月六日に西安を出發し、模造碑を追うて鄭州に向つた。私はホルム氏より更に三日後くれて、十月九日に西安を出發して、同氏の後を鄭州に向つた次第である。模造碑は鄭州から京漢鐵道で漢口まで運び去られたが、漢口の税關で差押へられた。ホルム氏自身北京に出掛け、總税務司のハート(Robert Hart 赫徳)氏に談判して、差押へを解除して貰ひ、漢口から上海へ、上海から米國に送り、千九百八年(明治四十一)六月から、この模造碑はニューヨークの藝術博物館(Metropolitan Museum of Art)に附託品として陳列された。ニューヨークに陳列されること滿八年にして、千九百十六年(大正五)に、然るべき買手が出來、この模造碑をローマ教皇ベネディクト十五世(Benedict XV)の手許に獻送
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