X(Ephesus)の宗教會議で、このネストリウスの見解は異端として禁止された。されどこの新説は、西アジア地方に流行し、ついで中央アジアにも傳播した(5)。唐が支那を統一して後ち、塞外經略に手を着け、その國威が西域に振ふと、その太宗の貞觀九年(西暦六三五)に、阿羅本といふ者が始めて景教を支那に傳へた。爾來景教の法運は次第に隆興したが、太宗の六世の孫に當る徳宗の建中二年(西暦七八一)に、當時の國都長安に在つた、大秦寺と稱するネストル教の寺院の僧の景淨、洋名をアダム(Adam)といふものが、同じくネストル教の信者か、若くば僧侶で、西暦八世紀の後半に、中央アジアの王舍城、即ちバルク(Balkh)から來て、唐に登庸されて、光禄大夫・朔方節度副使・試殿中監に出世した、伊斯(洋名イザドブジド Izadbuzid ?)といふ人の出資によつて、この記念碑を建て(6)、ネストル教の教義や、その支那傳來の歴史を書き誌したものである。
碑は黒色の石灰石より成り、その高さは臺の龜趺を除いて、約九フイト、幅は平均三フイト四インチ、厚さ約十一インチといふ。碑面には三十二行、毎行六十二字、すべて約千九百字の漢字が
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