「界的に有名となつて居る。明末に發掘されて以來、今日までこの古碑の歴史や解釋に關する著書や論文は、殆ど汗牛充棟といふ有樣で、歐米方面の文獻は、大略ヘレル(Heller)の『西安府のネストル教碑』に紹介されて居り(1)、コルヂエ(Cordier)の『支那書史』には、一層網羅されて居る(2)。支那方面の文獻は、清の楊榮※[#「金+志」、387−1]の『景教碑文紀事攷正』と、ワイリ(Wylie)の「西安府のネストル教碑」といふ論文中に備つて居る(3)。かく關係の著書や論文の多いのは、畢竟この景教碑が世間から重要視されて居る一の證據と思ふ。
抑※[#二の字点、1−2−22]景教即ちネストル教とは、西暦五世紀の初半に出たネストリウス(Nestorius)の唱へ出した、キリスト教の一派である。ネストリウスは三位一體に關して、新しい見解を主張した。彼の主張に據ると、キリストは神性を具へた一個の人間に過ぎぬ。從つてキリストの母のマリアを、從來の如く Theotokos(神の母)と稱するのを排して、Christotokos(キリストの母)と稱すべしと主張する(4)。西暦四百三十一年に開かれた、エフェス
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