c時ローマに在住して居つた、教名をアンドレアス(Andreas)、マテウス(Matthaeus)といふ二人の支那人の助力を得て、碑の漢文をラテン語に譯出した(22)。かのキルヘルス(Kircherus)の『支那畫報』に收載されてある、景教碑の譯文は即ちこれである。
景教碑が歐洲に紹介されると、早くその當時から碑の眞僞に就いて、疑惑を挾む者があつた(23)。碑文の廣く知らるるに從ひ、之に對する一部の學者の疑惑は益※[#二の字点、1−2−22]深く、中にもフランスのヴォルテール(Voltaire)の如きは、全くジェスイット派の宣教師達の僞作であるとて、手嚴しい非難を加へて居る。十九世紀に入ると、ドイツのノイマン(Neumann, 1850)や、フランスのルナン(Renan, 1855)、ジュリアン(Stanislas Julien, 1855)の如き(24)、有力な東洋學者が、景教碑に關する疑惑を發表した。ルナンやジュリアンは、特に景教碑のみに關する論文はなく、彼等の意見は別の題目の著書の中に附記されて居るのみであるが、ノイマンは「西安の僞造碑」と題する論文を、『ドイツ東洋協會時報』に掲
前へ
次へ
全45ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング