フ『西安府のキリスト教碑』を閲讀した所が、アヴレも亦この點に就いては、私と略所見を同くせることを發見して(11)、頗る我が意を強くし得たことを、茲に附記して置く。
次に景教碑出土の場所に就いては、西安の外に※。近時では景教碑の研究者として、尤も著聞して居る例のアヴレが、この説の熱心なる支持者で、そのアヴレの影響を受けた、英國の宣教師のモウル(Moule)や(13)、我が佐伯好郎氏なども(14)、同樣にこの説を主張して居るが、到底成立し難いと思ふ。左に簡單にその理由を述べる。
(第一) この景教碑文を作つた大秦寺の僧景淨は、長安の大秦寺の僧と認めねばならぬ。殊にこの碑の施主又は建設者である、バルク(王舍城)産のイザドブジド(伊斯?)は、長安の大秦寺の司祭及び司教代理たることは、碑のシリア文に明記してある(15)。景淨やイザドブジドの關係から推して、この碑はもと長安城内の義寧坊に在つた大秦寺の境内に建設されたもので、※[#「(幸+攵)/皿」、393−15]※[#「厂+至」、393−15]地方に建設されたものでないことがわかる。
(第二) 唐時代に※[#「(幸+攵)/皿」、393−16]※
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