「界的に有名となつて居る。明末に發掘されて以來、今日までこの古碑の歴史や解釋に關する著書や論文は、殆ど汗牛充棟といふ有樣で、歐米方面の文獻は、大略ヘレル(Heller)の『西安府のネストル教碑』に紹介されて居り(1)、コルヂエ(Cordier)の『支那書史』には、一層網羅されて居る(2)。支那方面の文獻は、清の楊榮※[#「金+志」、387−1]の『景教碑文紀事攷正』と、ワイリ(Wylie)の「西安府のネストル教碑」といふ論文中に備つて居る(3)。かく關係の著書や論文の多いのは、畢竟この景教碑が世間から重要視されて居る一の證據と思ふ。
 抑※[#二の字点、1−2−22]景教即ちネストル教とは、西暦五世紀の初半に出たネストリウス(Nestorius)の唱へ出した、キリスト教の一派である。ネストリウスは三位一體に關して、新しい見解を主張した。彼の主張に據ると、キリストは神性を具へた一個の人間に過ぎぬ。從つてキリストの母のマリアを、從來の如く Theotokos(神の母)と稱するのを排して、Christotokos(キリストの母)と稱すべしと主張する(4)。西暦四百三十一年に開かれた、エフェスス(Ephesus)の宗教會議で、このネストリウスの見解は異端として禁止された。されどこの新説は、西アジア地方に流行し、ついで中央アジアにも傳播した(5)。唐が支那を統一して後ち、塞外經略に手を着け、その國威が西域に振ふと、その太宗の貞觀九年(西暦六三五)に、阿羅本といふ者が始めて景教を支那に傳へた。爾來景教の法運は次第に隆興したが、太宗の六世の孫に當る徳宗の建中二年(西暦七八一)に、當時の國都長安に在つた、大秦寺と稱するネストル教の寺院の僧の景淨、洋名をアダム(Adam)といふものが、同じくネストル教の信者か、若くば僧侶で、西暦八世紀の後半に、中央アジアの王舍城、即ちバルク(Balkh)から來て、唐に登庸されて、光禄大夫・朔方節度副使・試殿中監に出世した、伊斯(洋名イザドブジド Izadbuzid ?)といふ人の出資によつて、この記念碑を建て(6)、ネストル教の教義や、その支那傳來の歴史を書き誌したものである。
 碑は黒色の石灰石より成り、その高さは臺の龜趺を除いて、約九フイト、幅は平均三フイト四インチ、厚さ約十一インチといふ。碑面には三十二行、毎行六十二字、すべて約千九百字の漢字が
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