レして居る(25)。
之に對して景教碑の辯護論者も多いが、その中で尤も有力と認められるのは、フランスのポオチエ(Pauthier, 1857)と(26)、英國のワイリ(Wylie, 1854)とである(27)。ポーチエの論文は、ノイマン、ルナン、ジュリアン諸氏の疑惑に對して、有力な辯駁を加へて居る。ワイリの論文は、ポーチエ程論爭的でないが、新に彼の試みた尤も傑出した景教碑文の飜譯に添へて、彼の豐富なる支那學の智識を傾倒して、支那の金石學者の所説を利用して、この碑の僞造であり得ざることを保證して居る。ワイリは支那の有名な金石學者、例へば顧炎武とか、錢大※[#「日+斤」、第3水準1−85−14]とか、王昶とかいふ人達の、この碑に關する考證を紹介し、支那の學者は一人も、この碑の眞物たることを疑ふ者がないといふ事實を指摘して居る。ワイリより三十年餘り後に、オクスフォード(Oxford)大學のレッグ(Legge)も、その『西安府のネストル教碑』といふ著書中に、過去に於て、支那の一人の學者も、この碑の僞物たることを明言したる者がないというて居る(28)。
されど比較的近代の支那の學者の中には、景教碑の僞作を主張した者もないでない。陶保廉の『辛卯侍行記』に載せられた、錢潤道の如きも、その一人で、
此碑宋人金石書未[#二]著録[#一]。……似[#三]明人僞撰、託爲[#二]明時出[#一レ]土。
というて居る。また『皇朝經世文編初續』中に收めてある、闕名氏の「天主邪教入中國攷」にも、
且僞[#二]造大秦景教流行碑[#一]。……埋[#二]西安府城外[#一]、佯掘[#レ]之。以證[#二]其教由來之久[#一]。
と記してある。勿論此の如きは稀有の例外で、支那學者の多數は、この碑の當時の眞物たることを疑はぬ。ワイリ、レッグ二人の言ふ所も、先づ正當と認めてよい。
しかし今日では、景教碑の眞僞などは最早問題でない。この碑の眞物たることは、何等の疑惑を容れぬ。
(一)[#「(一)」は縦中横]この碑文の書體は、明かに唐時代のもので、明時代に僞作されたものでない。
(二)[#「(二)」は縦中横]この碑中に引用されてある、唐の太宗の貞觀十二年(西暦六三八)の阿羅本優遇の詔は、殆ど一字も違へずに、その儘『唐會要』卷四十九に載せられて居る。明末のキリスト教關係の人々が、『唐會要』の記事によつて、
前へ
次へ
全23ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング