へたと申傳へて居るが、隨分有り勝のことであらう。海外から留學に來た一僧侶が、僅々二ヶ月にして、衆弟子を越えて、法燈繼承の大名譽を負うたことは、確に一部の者に奇怪驚愕の念を起さしめたに相違ない。是に由つても大師の資性の如何に非凡であり、また惠果阿闍梨の大師に對する信任の如何に深大であつたかを、想見し得て餘あると思ふ。
眞言の教義は深密で、圖畫を借らねば、説明理會し難い點があるといふ阿闍梨の注意で、大師は供奉丹青博士の李眞らに依頼して、大曼荼羅十鋪を作らしめ、また供奉鑄博士の楊忠信らに依頼して、佛具十五事を作らしめた。供奉とは唐時代には一藝に卓越した者を選んで宮廷の供奉官とした。差當り我が宮内省御用掛といふ格である。楊貴妃の一族の楊※[#「金+りっとう」、第3水準1−92−92](楊國忠)などは、※[#「てへん+樗のつくり」、読みは「ちょ」、374−14]※[#「くさかんむり/捕」、読みは「ほ」、374−14]が上手といふので、供奉官となり、それが出世の緒で、遂に玄宗の晩年の宰相となつた。かかる供奉は有難くないが、丹青博士といへば、先づ今日の帝室技藝員に相當すべきであらう。
唐は藝術最盛の時代であつた。中にも支那の繪畫は、當時の世界に冠絶して居つた。唐末のアラビア人の支那見聞録にも、支那人はあらゆる技藝に於て、世界の各國民中に卓越して居るが、殊に繪畫を第一とする。彼等は他國民人には、到底模倣し得ざる程の完全なる繪畫を作ると述べてある。支那の鑄金術や合金術も、古代から頗る發達して居つた。大師の入唐より約百年前に、則天武后の延載元年(西暦六九四)に、諸蕃長は醵金して、武后の徳を頌する爲に、洛陽の宮城の正門前に、銅鐵製の天樞を建てた。天樞の形は八角で、その一面の廣さ十二尺、高さ百五尺といふ。天樞の正面には、武后の親筆で大周萬國頌徳天樞の八字を刻し、その周圍には、この計畫に贊成した百官及び四夷諸酋長の名を刻した。土臺は同じく銅鐵製の山形で、高さ二十尺周圍百七十尺餘に及ぶ。この土臺の上に、天樞が聳立して、定めて偉觀を呈したであらう。天樞は武后の死後間もなく破壞されたけれど、當時の記録によつて、その規模を髣髴の間に想見することが出來る。唐人の金物製作に長じて居つたことは、正倉院の御物――御物の中に唐製の器具尠くないと見受ける――を拜觀しても、推知するに難くない。この藝術の發達した唐時代に、或は丹青を以て、或は鑄金を以て、供奉博士に推された人々の、技能の拔群なるべきは贅言を要せぬ。從つて大師が携帶歸朝された、此等の曼荼羅・佛具は、單に藝術的方面から觀ても、大いに貴重すべきものと思ふ。
勿論大師はこの曼荼羅・佛具を作る爲に、此等藝術家に尠からざる報酬を支拂はれたことであらう。數多き藝術家の中には、銅臭を帶びた者も皆無とはいへぬ。現に慈覺大師の入唐の時、同じく青龍寺に滯在して、畫工を雇ひ佛像を畫かしめんとしたが、報酬多からざる爲、一時拒絶された事實もある。當時大師の御手許は決して豐富でなかつた筈と想ふ。由來精神的事業に出金を惜むのが、日本政府及び日本國民の古今の通弊である。
唐時代に於ける我が留學生及び學問僧の待遇は、委細のことは知り難いけれど、決して十分でなかつた。大師が同伴の橘逸勢の爲に、日本國使へ學資窮乏を申出られた、「爲[#二]橘學生[#一]與[#二]本國使[#一]啓」の中に、
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日月荏苒、資生都盡。此國所[#レ]給衣糧、僅以續[#レ]命、不[#レ]足[#二]束脩讀書之用[#一]。若使[#三]專守[#二]微生之信[#一]、豈待[#二]廿年之期[#一]。非[#三]只轉[#二]螻命於壑[#一]、誠則國家之一瑕也(『性靈集』卷五)
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と述べられて居るに據ると、當時の留學生は、支那政府から支給さるる衣食に由つて露命を維ぐのみで、積極的研究などの餘裕のなかつたことが判る。大師も略之と同樣の待遇かと想ふ。
かかる境遇の間に一流の藝術家を雇ひ、佛畫佛具を作り、幾多の筆生を雇うて經文を寫すのは、中々容易のことであるまい。現に大師が歸朝の途次、浙江の越州(今の會稽道紹興縣)に立ち寄られ、越州の地方長官に經典の蒐集を依頼された時の「與[#二]越州節度使[#一]求[#二]内外經書[#一]啓」に、
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今見於[#二]長安城中[#一]、所[#二]寫得[#一]經論疏等凡三百餘軸、及大悲胎藏金剛界等大曼荼羅尊容、竭[#レ]力涸[#レ]財、※[#「走+尓」、読みは「ちん」、376−7]逐圖畫矣。然而人劣教廣、未[#レ]拔[#二]一毫[#一]、衣鉢竭盡、不[#レ]能[#レ]雇[#レ]人、忘[#二]食寢[#一]勞[#二]書寫[#一](『性靈集』卷五)。
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と告白されて居るではないか。大師をして、逸勢をして、此くの如き窮乏の裡に求法講學せしめた、當時の日本政府の處置は、今日から觀て甚だ遺憾に堪へぬ。併しこはさきに申置いた通り、古今を通ずる我國の缺陷である。千百年後の大正の今日と雖ども、この缺陷は格別改良されて居らぬ。四五日前の新聞紙に、ドイツのマルク爲替相場が下落したから、在獨の日本研究員は、大盡暮らしをして居るといふ記事があつたが、これは一時的現象に過ぎぬ。名義こそ從來の留學生は在外研究員と改良されたが、實際の待遇は、到底陸海軍等の在外研究員と比較出來ぬ程愍然たるものである。私も二年間の支那留學中、可なり苦しい境遇に在つたから、この點に就いては、特に大師に同情申上ぐる次第である。
かくする間に、その年の十二月十五日に、惠果阿闍梨は老病を以て遂に入寂された。大師が就いて請益されてから、正しく半歳の後に當る。若し大師の入唐が半年後くれたならば、永遠に阿闍梨に請益の機會を失はれた筈である。大師は延暦二十三年の五月に入唐の勅許を受け、その六月に難波津を發船して、翌七月に支那に渡航されたのである。かかる都合よき遠征は、當時で申せば稀有の幸運である。多くの場合は風待ちの爲に、半年か一年、時には二年をも空費せなければならぬ。傳教大師の如きも、延暦二十二年に入唐の豫定が、一年延期を餘儀なくされて居る。たとひ大師が首尾よく入唐されても、若し惠果阿闍梨が半年早く入寂されたならば、水魚の關係に在るこの二方は、永遠に會合の機會を失はるべき筈であつた。萬一かかる場合ありとせば、大師の爲にも、惠果阿闍梨の爲にも、一大不幸なるべきは勿論、第一日本の宗教界にとつて、想像以上の大損失であらねばならぬ。かく考へると、大師と阿闍梨との會合こそ、實に千歳の一遇と申すべきであらう。
惠果示寂の後ち、大師はこの恩師の爲に碑文を作られた。『性靈集』卷二に收めてある、大唐神都青龍寺故三朝國師灌頂阿闍梨惠果和尚之碑がそれである。一體大師の文章は、時代の風尚を受けた四六駢儷體で、この碑文も勿論同樣であるが、今日傳はれる大師の文章の中で、尤も傑出したものの一つであらう。これは文學隆盛の支那の本場で、一外國の沙門の身を以て、名譽ある文章を作るといふので、隨分苦心された故もあらうが、同時に衷心から恩師に對する思慕景仰の念の深厚なる故と思ふ。
大師の入唐中第一に恩顧を受けたのは、上述の惠果阿闍梨であるが、之と共に今一人の般若三藏を見逃がしてはならぬ。大師自身も、その「與[#二]本國使[#一]請[#二]共歸[#一]啓」に、
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著[#二]草履[#一]歴[#二]城中[#一]、幸遇[#二]中天竺國般若三藏、及供奉惠果大阿闍梨[#一]、膝歩接足、仰[#二]彼甘露[#一](『性靈集』卷五)。
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と明言されて居る。この般若三藏の住する醴泉寺は、右街の醴泉坊に在つた。我が慈覺大師もこの寺の宗穎に就いて教を請はれたことがある。
般若三藏は北印度|迦畢試《カピサ》の人で――『性靈集』に、中天竺國般若三藏とあるのは、想ふに、この三藏が主として中天竺で修業した故であらう。『宋高僧傳』の卷二に、迦畢試の智慧を收め、卷三に※[#「よんがしら/(厂+(炎+りっとう))」、第4水準2−84−80]賓の般若を收めてあるが、之は何れも同一の般若三藏を指したものかと疑はれる――天竺を歴游した後ち、海路から廣州に來り、徳宗の建中三四年(西暦七八二―七八三)の頃に長安に到着した。長安で偶然その近親の羅好心――羅好心の父は般若三藏の母の同胞で、羅好心と般若三藏とは表兄弟《ははかたのいとこ》である――とて、印度から支那に來り仕へて、近衞の將軍に出身して居る者に邂逅して、その家に厄介になつて居る間に、大秦寺といふネストル教の寺の僧景淨と協力して、胡本六波羅密{多}經を漢譯した。胡本とは榊博士の講演にも申述べられてある如く、恐らく中央アジアのソグド語の佛典を指すのであらう。ソグド語とは西暦九世紀の頃まで、廣く中央アジア一帶に行はれたイラン語系の言葉で、その文字はシリア文字と略同樣で、横書ながら梵語とは反對に、右から左へ書くのである。漢譯佛典の原本に梵・胡の區別がある。胡とはソグド語に限つた譯ではないが、ソグド語も胡語の中に攝收されて居る。
支那の記録に據つても、又イスラム教徒の記録を見ても、中央アジア一帶の地に、古く佛教が流行して居つた。爾後マニ教やゾロアスター教や、最後にイスラム教が侵入するに從ひ、佛教の勢力は次第に衰退したけれど、西暦八世紀の半頃、即ちほぼ般若三藏の時代までは、細々ながらその法運を維持して居つた。さればこそ中央アジア地方に行はれた、ソグド語の佛典も存する譯である。
併し般若三藏が景淨と共譯した、最初の六波羅密多經は、種々の點に於て不完全であつた。第一般若三藏は佛教に達すれども、胡語・唐語(支那語)を知らず、景淨は胡語を知れども、佛教に達して居らぬから、この二人が協力しても、到底完全なる翻譯が出來る筈がない。かくして般若三藏は貞元四年(西暦七八八)に、新に梵本から六波羅密多經を譯した。これが今日に傳はる所の『大乘理趣六波羅密{多}經』である。元來この般若三藏は日本へも渡航布教の志を懷いて居つた人故、大師に對して特別の眷顧を垂れ、その譯出した『新譯華嚴經』『大乘理趣六波羅密{多}經』等を始め、梵夾三口を授けた次第は、『御請來目録』に載せられて居る。
この般若三藏の相手となつた大秦寺の僧景淨といふは、徳宗の建中二年(西暦七八一)に建設された、かの有名な大秦景教流行中國碑文を撰述した人である。景淨の本名をアダム(Adam)といふ。彼の建設に關係した景教碑は、唐時代に於けるネストル教が支那に流行した來歴を明かにしたもので、耶蘇教國民にとつて忘れ難い好箇の記念物である。從つて歐米諸國民は、この景教碑に對して、吾人の想像以上の執着をもつて居る。嘗て在北京の外交團が一致して、支那政府にこの碑の保護を交渉したことさへある。今より十四五年前の明治四十年に、デンマークの學士|何樂模《ホルム》(Holm)といふ人が、英米二國で資金を作り、この景教碑を買收する目的で長安へ出掛けた。この計畫は種々の故障によつて、遂に實現を見なかつたが、その何樂模氏は長安で、景教碑の原物と同質同大の模造碑を作り、之を米國へ持ち込んだ。この事件の爲に、一時支那の官民は大騷をしたことがある。丁度この事件の最中に、私が偶然長安へ參つたので、この景教碑とは可なり深い因縁を作つた。その委細の事實は、明治四十三年四月の『藝文』に發表して置いた。何樂模氏とは行違つて面識はないが、どこからか私のことを聞き知つたと見え、明治四十五年に、態※[#二の字点、1−2−22]書信を寄せ、景教碑の模造碑を作つた爲、歐米の教界・學界から、幾多の表奬を受けたから、喜んでくれといふ鄭重な挨拶があつた(「大秦景教流行中國碑に就いて」)。
長安に現存する景教碑の本物以外に、近年その模造碑が世界に二個出來た。一つは上述の明治四十年に、何樂模氏の作つたもので、久しく米國のニューヨークの中央博物館に陳列されてあつたが、近頃ローマの教皇廳へ移轉されたといふ。今一つは明治四十四年
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