0−16]、歳取[#二]三二人、姓氏稀僻者[#一]、謂[#二]之色目人[#一]。亦曰[#二]※[#「片+旁」、第4水準2−80−16]花[#一]。
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とあるのを見ると、外國人で支那の科擧(高等文官試驗)に合格した者が、意外に多かつた樣に思ふ。私が先年學界に紹介した、李彦昇の如きは、大食《タージ》(アラビア)人で、この高等文官試驗に合格して居る。
 此等諸外國人は何れも、世界の大國たる唐に仕官することを非常なる名譽と心得、唐の爲に各自の材能を盡くすといふ有樣故、自然世界の文化の精華は唐に※[#「さんずい+(匯−さんずい)」、第4水準2−79−7]《あつま》る譯である。支那文化は世間に想像されて居る程、しかく孤立的のものでない。唐代の文化の特色は、印度文化とイラン文化が、著しく支那文化に影響した點に在る。此等外來文化の影響を度外視しては、決して唐の文化の眞相を悉くすことが出來ぬ。印度の宗教・藝術・天文・醫藥等が唐に影響したことは、『隋書』の經藉志や、『唐書』の藝文志を見ると、此等關係の印度の書物が、尠からず支那に翻譯されて居る事實に由つても、その大概を察知するに難くない。ペルシアの宗教・藝術・天文等も、可なり唐に影響して居ることは、近時實物の上からも、記録の上からも、次第に明瞭となつて來た。私の同僚の榊博士が、七八年前に當降誕會に於て、「大師の時代」と題する有益なる講演をせられ、その中に唐代時代の外來文化の影響といふ點を、隨分詳細に紹介されてあるから、是非參考せられんことを希望する。
 唐の玄宗時代の韋述といふ人の『兩京新記』――北宋の宋敏求の『長安志』卷七に引く所に據る――に、開元末期の長安城中に於ける寺觀の數を擧げて、僧寺六十四、尼寺二十七、道士觀十、女觀六、波斯寺二、胡※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]祠四とある。その後六十餘年を經た、大師の長安留學の頃には、多少の變動のあつたことは勿論であるが、『兩京新記』を參考して、當時の教界の大勢は略想像し得るかと思ふ。之に由ると佛教が格段の相違を以て優勢を占めて居る。その次は道教である。道教は唐の皇室と特別の關係があつて、手厚い保護を受けたが、それにも拘らず、宮觀の數は佛寺の六分の一に過ぎぬ。波斯寺と胡※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]祠とは、何れも唐時代か若くばその少しく以前に、新に、支那に傳來した、西域の宗教の祠寺である。
 波斯寺とのみでは、ネストル教(景教)の寺を指すか、又はゾロアスター教(※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]教)の寺を指すのか、一寸判定し難い。玄宗の天寶四載(西暦七四五)以後は、ネストル教の寺は大秦寺と稱することとなつて、區別は付くが、その以前の開元時代には、兩教の寺を同樣に波斯寺と稱した。併し殘缺ながら今日に傳はれる『兩京新記』の内容を調査すると、波斯寺二とある中の一つは、右街の醴泉坊に在る波斯胡寺で、これは高宗の儀鳳二年(西暦六七七)に、當時唐の保護を受けて居つたペルシア王|卑路斯《ピールーズ》の爲に建立したもので、ゾロアスター教の寺である。今一つは同じく右街の義寧坊に在る波斯胡寺で、これは唐の太宗の貞觀十二年(西暦六三八)に、ネストル教の僧の阿羅本《オロパン》の爲に建立したもので、かの大秦景教碑に、有司即於[#二]京義寧坊[#一]、造[#二]大秦寺一所[#一]――ここに大秦寺といふは、天寶四載以後の名稱に據つたものである――とあるもので、ネストル教の寺を指すこと疑を容れぬ。
 胡※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]祠とあるのもやや曖昧である。『兩京新記』の本文を見ると、右街の布政坊にある胡天祠は、高祖の武徳四年(西暦六二一)に、西域の胡天神を祀る爲に建てたといふ。『佛祖統記』卷三十九に據ると、波斯人拂多誕――フランスのゴーチオ(Gauthiot)氏は拂多誕とはペールヴイ語(中古のイラン語)で、法師の意味をもつフルスタダーン(〔fura※[#キャロン付きS小文字、1−10−18]tada^n〕)といふ言葉の音譯で、固有名詞であるまいといふ――が始めて唐にマニ教を傳來したのは、武后の延載元年(西暦六九四)であるから、その七十年前に建立された、この布政坊の胡※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]祠は、勿論ゾロアスター教のものと認めねばならぬ。大師の入唐より約二十年後に作られた、舒元輿の唐鄂州永興縣(今の湖北省江漢道陽新縣)重巖寺碑銘(『全唐文』卷七百二十七)に、當時支那國内に行はれた、外來の三宗教の摩尼(末尼)と大秦(景教)と※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]神(胡※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]・火※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22])との寺院を總べて、三夷寺と稱して居る。かく區別する時は、胡※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]はゾロアスター教に限つて、マニ教を含まぬ筈である。されどマニ教も、※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]教(ゾロアスター教)も、等しくペルシアに行はれ、また等しく明暗の二宗を説けば、宗教の内容などに不注意勝な支那の學者は、時にマニ教をも胡※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]の中に混同したかも知れぬ。
 要するに『兩京新記』に據ると、西暦八世紀の半頃に、長安に景教の寺もあり、又※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]教の寺もあつた。ただマニ教の寺の有無はやや不確であるが、恐らく洛陽と同樣に長安にも存在したことと想像される。玄宗の孫の代宗の時代になると、囘※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]人が多く長安に來往し、これら囘※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]人がマニ教に歸依したから、自然長安に大雲光明寺といふマニ教の寺が建立された(『資治通鑑』唐紀五十三)。大師の長安に到着された頃には、長安にマニ教の寺院の存在したこと勿論である。此等諸外教のことに就いては、さきに紹介した榊博士の講演を參考されたく、更に唐代のネストル教に關しては、アヴレ(Havret)氏の著書があり、マニ教に關しては、シャヴァンヌ(Chavannes)及びペリオ(Pelliot)二氏合著の論文があるから、此等の著書や論文を參考あれば、一層結構と思ふ。
 今の長安縣の學習巷の清眞寺内に、玄宗の天寶元年(西暦七四二)に建設されたと傳へらるる創建清眞寺碑が現存して居る。この碑を信憑するならば、大師入唐の頃には、長安に上述の三夷寺以外に、更にイスラム教(囘教)の寺院もあつた筈である。されどこの碑は、私が嘗つて證明した如く(明治四十五年七月の『藝文』參看)、明代の僞作であるから、是に由つて當時長安に囘教の寺院の存在を確認することが出來ぬ。ただ大師入唐の頃イスラム教徒が、商業上や政治上の目的で、尠からず長安に往來したことは事實である。

     (六)長安に於ける大師

 大師が我が遣唐大使藤原葛野麻呂の一行に加つて、長安に到着された當初は、その一行と共に、支那政府から指定された宣陽坊の官宅に宿泊された。普通ならば皇城内の鴻臚寺の客館にでも就く筈であるのを、この時支那政府の都合で、我が一行は皇城外の宣陽坊の公館に安置されたものと見える。遣唐大使が所定の任務を果して、翌年の順宗の永貞元年、即ち我が延暦二十四年(西暦八〇五)の二月十日に長安を出發して、歸朝の途に就くと、その日から大師は公館を辭して、西明寺に引越をされた。
 西明寺は右街の延康坊の西南隅に在つた。唐の高宗の顯慶三年(西暦六五八)の建立で、印度の祇園精舍の規模に倣つたものと傳へられて居る(『續高僧傳』卷四)。我が近江の梵釋寺の永忠が十數年留學した寺で、大師の起臥さるることになつた居室は、即ち二十幾年以前に、永忠僧都の起臥した居室である。大師の高弟で、大師より約六十年後に入唐せられ、更に海路印度に法を求めんとて、中途の羅越國――今のマレー半島の南端シンガポール附近に在つたかと想はれる國――で逝去された高岳親王も、一時ここに滯在された。兎に角日本の佛教界にとつて、因縁のもつとも深い寺である。この寺は牡丹の名所で、白樂天や元※[#「禾へん+眞」、第3水準1−89−46]の詩集中に、西明寺牡丹と題する詩が見えてゐる。大師の入唐時代より約四十年を經て、武宗の會昌五年(西暦八四五)五月に、天下の佛寺を廢し、長安城中に僅に四個寺だけ存在を許した時、この西明寺は、その四個寺の一として存續を許されたほどの名刹である。
 この西明寺は西市に近い。長安には東市と西市とあるが、西市の方が盛大で、外國商人は多くここに來集した。囘※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]商人と共に、マニ教徒も多くこの西市に往來した樣である。ペルシアや大食の商賈も、尠からずこの西市に出入して居る。又西明寺附近には、景教の寺院や※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]教の寺院も存在するから、研究心の深く、知識慾の盛な大師は、西明寺滯在中に、定めし此等の異教徒又は彼等の寺院に對して、相當の注意を拂はれたことと想ふ。二月から六月まで約四ヶ月間、大師は西明寺に滯在しつつ城内の名刹を訪ひ、大徳を叩いて請益されたことは、その「上[#二]新請來經等目録[#一]表」に、周[#二]游諸寺[#一]、訪[#二]擇師依[#一]といへる通りである。この周游された寺院の中に、玄奘三藏と特別の關係ある、晉昌坊の大慈恩寺や、不空三藏と特別の關係ある、靖善坊の大興善寺等の存すべきは殆ど疑を容れぬ。
 その六月に大師は青龍寺の惠果阿闍梨に晉謁して、遂に同阿闍梨より、眞言宗を傳授さるることとなつた。青龍寺は西明寺とは反對に、左街の東邊の新昌坊の南門の東に在つた。土地は高く、展望は廣い。北宋の錢易の『南部新書』戊に、
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長安戲場多集[#二]于慈恩[#一]、小者在[#二]青龍[#一]、其次薦福・永壽。
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とあれば、可なり群衆の雜沓した場所らしい。大師がこの寺で密教を傳へられた關係から、爾來我が入唐の大徳は、慈覺大師でも智證大師でも、みな青龍寺に留錫するといふ風に、我が國の佛教と關係の尤も深い寺である。この寺も武宗の時、一旦は廢絶されたが、一年ならずして再興せられ、格別の迫害を受けずに、法運を維持することが出來た。『咸寧縣志』卷十二に、
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石佛寺即唐青龍寺、在[#二]祭台村[#一]。
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とあれば、青龍寺は後に石佛寺と名を變へて、嘉慶時代まで存在したものと見える。祭台村は今の長安縣の西南郊外、我が一里強に當る。私は長安へ出掛けた時分に、未だこの事實を承知せなかつた爲め、石佛寺を探訪せず、今日まで遺憾千萬に思ふ。私の前後に長安に出掛けた人々が尠くないが、誰も石佛寺の現状を審にせぬ樣である。{その後大正十三年の夏に、眞言宗の青年僧侶の和田辨瑞君が、私のこの論文に刺戟され、態※[#二の字点、1−2−22]長安に出掛けて青龍寺の舊蹟を踏査し、石佛寺――今は祭台村の小學堂になつて居る――の現状を始めて傳へられた。大正十四年二月發行の『新興』といふ雜誌に、その大要が紹介されて居る。近頃、大正十四年九月の『宗教研究』に、常盤大定博士が、石佛寺を青龍寺の舊蹟とする説を否定されたとか仄聞したが、不幸にして未だ寓目の機を得ぬ。私は今日でも石佛寺を青龍寺の遺址とする説を信頼して居る。何れ常盤博士の論文を閲讀した上で、それに對する批判を學界に公表したいと思ふ。} 
 さて大師はこの年の六月十三日に、始めて惠果阿闍梨に就いてから、二ヶ月を經たその八月には、早くも傳法阿闍梨位の灌頂を受けらるることになつた。私はさきに申述べた通り、眞言の教義には全く不案内であるが、かかる短日月にして、かかる名譽ある灌頂を受けることは、極めて異常のことと思ふ。經範の『大師御行状集記』に、この時玉堂寺の僧珍賀といふ者が、再三この傳法に不平を唱
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