今より十二三年に、私は藤田劍峰君・長尾雨山君と同伴で、杭州から紹興(唐の越州)へ出掛けた。一艘の支那船を雇ひ、その中に寢泊りをいたし、炊事その他萬般雜事には、長尾君のボーイを使役する事にした。所がこの河筋を見渡すと、例によつて支那人は不潔物をここに排泄いたし、その河水で平氣に顏も洗へば、飯も爨くのである。我々日本人は之には顏を背《そむ》ける。私は我々のボーイも同樣に、この河水で炊事をせぬかといふ疑を起したが、主人公の長尾君は中々同意せぬ。同君はこのボーイは久しく自分の家で使役したから、支那人とはいへ、日本人同樣潔癖で、あんな不作法をする筈がないとて、激しく反對を唱へる。論より證據とて、食事の時分に給仕に來たボーイを捕へて詰問すると、ボーイは平氣の平左な顏で、何等遲疑する所なく、勿論この河水を毎日の煮炊に使用して居ると公言したので、流石の長尾君も全く面目を潰して閉口した。それ以來我々はボーイに一々干渉して、決して河水を使用させぬことにした。大師も潔癖なる日本人として、この道筋の旅行には、飮料水に就いて、可なり困難を感ぜられたことと恐察いたすのである。
 揚州から運河によつて、更に千三四百{支那}里北に進むと、遂に※[#「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]州(今の河南省開封道開封縣)に達する。現時の運河は江蘇から山東に入るが、唐・宋時代の運河は、山東へ行かずに、河南へ入つて※[#「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]州に達した。元來運河とはその名の示す如く、國都へ糧米を運漕する堀河である。隋・唐時代の國都である洛陽・長安、宋の國都の開封(即ち※[#「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]州)へ糧米を供給する運河であるから、隋・唐・宋時代に、この運河が河南に入るのが當然で、山東を通るやうになつたのは、今の北京へ糧米を運ぶ必要の生じた、元・明以來のことである。
 ※[#「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]州は北宋時代から一層繁華となるが、唐時代でも支那で相當の大都會であつた。ここには、唐・宋時代にかけて有名であつた相國寺がある。運河は※[#「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]州で一段落を告げる。黄河にも荷物船は通ずるが可なりの急流を溯ることとて、中々時日を要するから、旅客は之を利用せぬ。まして上述の如く前途を急がるる我が大使大師の一行は、勿論※[#「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]州で船を辭して、陸路に就かれたに相違ない。

       (B)陸路

 北支那の陸路を行くには所謂北馬で、馬車か乘馬に限る。身分ある人は大抵馬車を雇ふ。大使大師の一行は、勿論沿道の支那の官衙で準備してくれた、馬車を使用されたことと想ふ。支那の馬車は二千年前も今日も格別の相違がない。東漢時代の石彫に見えて居る馬車や、六朝時代の陵墓から發掘された馬車の模型と、十二三年前に、私が支那内地旅行の時乘用した馬車と略同一である。大師入唐時代の馬車も、大體同樣と認めねばならぬ。それは隨分窮屈なものである。
 支那に於ける陸路の交通は、水路に比して概して不愉快と申さねばならぬ。第一に道路が非常に惡い。殊に車馬の往來頻繁な北支那の道路は一層甚しい。道路の中央は破損されてその儘に、可なり深い凹字形になつて居る。都會の道路でも、降雨後は二三日位晴天が連續しても、その中央は池沼の樣になり、ここに水鳥が遊泳いたし、人間はその兩側の小高き所を歩行する有樣である。田舍の道路は一層で、雨が降ると、二尺も三尺もある深き泥濘となつて、事實車輪の半ばを沒する程である。我が國の道路の惡い事も隨分評判高いが、それでも支那の道路に比しては、霄壤の大差がある。唐時代には※[#「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]州・洛陽・長安街道は、幾分今日よりは良好であつたかも知れぬ。併し大した相違のある筈がない。地質上已を得ざる點もある。かかる有樣であるから、雨天の日には支那人は概して旅行を中止して、客舍で一日を空費する。されど我が大使大師の一行は、急ぎの旅とて、私共がこの方面を旅行した時と同樣、雨を衝き風を冒して一向に前進を繼續せられ、從つて尠からざる辛苦を嘗められた筈である。
 右の如き惡道路を支那馬車は、石が出て居つても、水が溜つて居つても、一切構はずに進行するから、乘客は不斷の地震の裡に旅行を續ける有樣である。馬車の中で書見する事も、居睡することも出來ぬ。うつかり居睡すると、否やといふ程、頭を馬車の箱に打ち付けねばならぬ。頭痛持の人では一寸旅行が六ヶ敷い。しかのみならずこの馬車は度々顛覆する危險がある。速度の遲いに拘らず、よく馬車が顛覆する。
 馬車の旅行に就いても面白い插話がある。私と今東京帝國大學に在勤の某教授と二人連で、洛陽から長安へ旅行した途中での出來事である。二人とも文部省の留學生として、學資に餘裕がないから、堂々たる旅行は勿論出來ぬ。そこで馬車一臺と馬一匹とを雇ひ、代る代る之に乘り代へることにした。馬車といふ條、實は棚車《ポンチヨウ》とて、アンペラで屋根を拵へた、粗末至極の荷馬車である。或日私が乘馬で早く指定の土地に到着して、後から荷物と一所に、馬車で來る筈の友人を待ち受けたが中々出て來ぬ。一時間經ても一時間半經ても、中々影が見えぬ。夕暮になるし、手荷物は屆かず、物慣れたボーイは友人と一所で、私唯一人蕭然と、半ば泣きたい氣持で、町の入口に見張りをして居つた。日が全く沒して暗くなつた時分に、漸く馬車が到着した。早速友人に遲刻を責めつつ事情を聞くと、その友人がうとうと車中で居睡をして居る間に、馬車が泥濘の裡に顛覆して、否やといふ程、頭を打ち付けた。喫驚《びつくり》したが、車内のこととて身動きが出來ぬ。ボーイや馭者に助けられて、やつと外へ出たが、顛覆した馬車は中々引き起こすことが出來ぬ。已を得ず友人も洋服姿の儘で泥中に這入り、馭者やボーイに力を協せて馬車を引き起こした。生れて初めての力仕事をし、洋服まで泥塗れにして、その上に不足を言はれてはと、友人は友人で愚痴をこぼす。それだけならば支那旅行中には有り勝の出來事で、珍らしくもないが、その日の夜中に、友人が大聲で喚き立てるので、側に寢て居た私は喫驚して起き上ると、その友人は小心小心――支那語で注意せよの意味――そら復た引くりかへつたと、日本語と支那語との合子の寢言《ねごと》を申して居るのである。餘程晝間の顛覆が身に沁みたのであらう。
 ※[#「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]州から西の方、唐の洛陽(今の河南省河洛道洛陽縣)まで、四百{支那}里餘りで、今は※[#「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]洛鐵路が開けて、約七八時間位で到着することが出來るが、馬車では普通五日又は六日を要する。一々の道筋の説明は省略するが、洛陽の手前、日本里數で三里たらずの所に、有名な漢代の白馬寺がある。今日の建築は明末清初のもので、さまで盛觀とはいへぬが、唐代には規模廣大で、又旅客の必ず通過すべき道筋に當るから、前途を急がるる大師も、支那佛教上忘るべからざるこの白馬寺には、必ず探訪されたことと想ふ。
 白馬寺を通過すると、やがて洛陽に着く。洛陽に新舊の二がある。舊洛陽は漢魏時代の都で東に、新洛陽は隋唐時代の都で西に在る。相距ること二十五{支那}里許といふ。その結果、漢の洛陽の西門外に在つた白馬寺が、上述の如く却つて唐の洛陽の東に當ることとなつた。大師時代の洛陽は、さして長安に劣らぬ繁華で、その城内を貫通する洛水の上に架せる天津橋は、實に肩摩轂撃の熱閙を極めたが、今は城外に淋しい名殘を存するのみである。洛陽の市街も殆ど見る影もない程淋れて居る。支那の數ある舊都會の中で、尤も衰微した都會の一つであらう。
 洛陽から西へ二日路で※[#「さんずい+黽」、第3水準1−87−19]池《メンチ》縣がある。ここから唐時代に有名な潼關に至るまで、支那の四百里、我が四十里餘りの間は、大體に於て黄河の南岸に沿ひ、山谷の間を行くので、道路は險惡で、雨天の際の旅行は實に困難である。※[#「さんずい+黽」、第3水準1−87−19]池から西の方一日程の所に、※[#「石+夾」、第4水準2−82−38]石といふ所がある。荒寥たる寒村であるが、長安と洛陽との往還には、是非共是處を通過せなければならぬ。丁度東西の谷底に當つて、車馬の通行頗る困難である。私が長安から洛陽への歸途に、その地を經過した時は、生憎の雨天で、險惡な道路が一層險惡となり、殆ど進退に窮した。殊に私はその兩三日前から發熱して、體温三十九度といふ病中を推しての旅行故、成るべく早く旅館に到着して、休養する必要がある。そこで見當り次第に馬を雇ひ、一臺の馬車に大小五六匹の馬を付けて行進したが、その※[#「石+夾」、第4水準2−82−38]石――※[#「石+夾」、第4水準2−82−38]石といふ地名は、日本の記録では『智證大師傳』に始めて見えて居る――へ今一息といふ所で、前方に行く重荷を滿載した支那商人の馬車が顛覆した。之が爲に、その後方に續く十臺許りの馬車は、何れも前進が出來ぬ。無論私の馬車も停頓せなければならぬ。路幅は狹く、泥濘は深く、馬車を引き起すことは中々六ヶ敷い。雨は激しくなる。夜は更ける。その間に三四時間も吹き曝され、夜の十時半頃にやつと※[#「石+夾」、第4水準2−82−38]石に着くと、唯一軒しかない宿屋は滿員で宿る場所がない。外國人だからとて無理に頼んで、不潔な支那宿の中でも、入念に不潔な宿屋の土間で一夜を過ごした。この苦しい體驗は今も忘れることが出來ぬ。この街道は今日に始まつた譯でなく、唐時代から同樣であつた。現に大師より約五十年後に入唐された智證大師なども、この難處では可なり苦勞されて居る。我が大師も往復ともにこの地を經過された筈であるから、定めて辛苦を嘗められたことと想像して間違ない。
 ※[#「石+夾」、第4水準2−82−38]石から更に西へ二日路で、有名な函谷關に差し掛る。我が二里許りの間は、兩側壁立千仭といふ有樣で、その間に辛く一馬車を通ずる事が出來る。實に函谷の名に背かぬ。それで三町位の間隔で、處々に崖を切り開き、兩馬車が途中で行違ふ時に、一つを避け一つを過ごす餘地を作つてある。この函谷關を通過する間は、馬方は絶えず一種の大聲を揚げて、前方から來る馬車を警戒する。その聲を聞いた馬車は、今申した廻避の場所で待ち合せて、雙方行違ふのが習慣となつて居る。性急な私共は、この慣習を無視し、前方から聞えて來る掛聲も構はず、躊躇する自分の馬方を叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]して、無理に前進さしたこともあるが、因果|覿《てき》面で、行違の餘地のない途中で馬車が出合ひ、全く進退に窮した。愈※[#二の字点、1−2−22]かかる場合になると、そこは悠長な支那人のこととて、雙方の馬方が鋤鍬など取り出して、崖を切り崩して、行違ひ出來るだけの場所を作る。その出來上る迄は、二時間でも三時間でも、否應なしに辛抱せなければならぬ。性急な爲に、却つて夥しい時間を空費した、馬鹿々々しい失策である。
 函谷關から西へ、二日程で例の潼關に達する。丁度大師より五十年程以前の天寶の亂に、官軍と賊軍とが、天下分け目の大戰をした場所である。潼關以西は普通にいふ所の關中の地で、道路も平坦に廣濶になつて來る。潼關から三日程前進すると、今の臨潼縣で、ここに驪山の温泉がある。唐の玄宗が楊貴妃と遊宴した場所で、白樂天の「長恨歌」や鄭嵎の「津陽門詩」に詠まれて、忘れ難い史蹟である。大師の時代には、まだ天寶の盛時を親覩した故老も多く存せしなるべく、且つは長安への往還に必經の道筋に當れば、大師もここでは定めし徘徊顧望されたことであらう。
 驪山の温泉の所在地から、日本里數で三里許り往くと※[#「さんずい+霸」、第3水準1−87−33]水の滸《ほとり》に出る。この川幅は二町に近い。川に※[#「さんずい+霸」、第3水準1−87−33]橋が架してあるが、その橋の兩側に楊柳が多い。唐時代に長安から東へ旅立する時には、
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