當時内外商賈の輻輳する所で、遠くアラビア(大食)ペルシア邊の外商も尠からずここに來集した。彼等の間には揚州はカンツウ(Kantou)として知られて居る。カンツウとは揚州の別名である江都を訛つたものと思ふ。ここには日本人や朝鮮人も多く來集した。揚子江沿岸へ入港する日本人朝鮮人は勿論のこと、揚子江以南の地へ入港する日本人朝鮮人も、皆揚州を通過して、洛陽や長安に出掛けた。自然揚州でアラビア人やペルシア人が、日本人朝鮮人のことを見聞する機會が多い。さればこそ唐の中世頃、即ち西暦九世紀の半頃のアラビアの地理書に、日本朝鮮の記事が始めて登録さるることになつた。それには日本をワークワーク(〔Wa^kwa^k〕)としてあるが、ワークワークとは倭國を訛つたもの、朝鮮をシーラー(〔Si^la^a^〕)といふのは、新羅の音譯であらう。
 此の如く運河の道筋には名都舊蹟が甚だ多いが、大使大師の一行は、一向に前途を急がれた。藤原葛野麻呂の復命に、
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星[#(ヲイタダキテ)]發星宿、晨昏兼行(『日本後紀』卷十二)。
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とある通りである。こは福州にて意外に時日を空費した
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