]舊記[#一]、度度使等、或有[#二]渡海不[#レ]堪[#レ]命者[#一]。或有[#二]遭[#レ]賊遂亡[#レ]身者[#一]。唯未[#レ]見[#レ]至[#レ]唐、有[#二]難阻飢寒之悲[#一](『菅家文章』卷九)。
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とあるに據ると、渡海の危險といふことも、その一大原因と認めねばならぬ。要するに大師時代の入唐は非常に危險多く、今日の歐米留學などと同一視すべきものでない。
さて話が本題に立ち歸つて、わが大師の渡海の有樣を申述べよう。最初肥前の田浦出發の時は、當時の慣例として四艘一組となり、同時に帆を揚げたが、間もなく離散した。中にも大師の乘船は、最も困難なる航海を續けたことは、大師の作られた「爲[#二]大使[#一]與[#二]福州觀察使[#一]書」(『性靈集』卷五)に、
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忘[#レ]身衝[#レ]命、冒[#レ]死入[#レ]海。既辭[#二]本涯[#一]、比[#レ]及[#二]中途[#一]、暴風穿[#レ]帆、※[#「爿+戈」、第4水準2−12−83]風折[#レ]柁。高波沃[#レ]漢《ソラニ》、短舟裔々。※[#「豈+風」、352−14]風《ミナミカゼ》
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