闍梨であるが、之と共に今一人の般若三藏を見逃がしてはならぬ。大師自身も、その「與[#二]本國使[#一]請[#二]共歸[#一]啓」に、
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著[#二]草履[#一]歴[#二]城中[#一]、幸遇[#二]中天竺國般若三藏、及供奉惠果大阿闍梨[#一]、膝歩接足、仰[#二]彼甘露[#一](『性靈集』卷五)。
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と明言されて居る。この般若三藏の住する醴泉寺は、右街の醴泉坊に在つた。我が慈覺大師もこの寺の宗穎に就いて教を請はれたことがある。
 般若三藏は北印度|迦畢試《カピサ》の人で――『性靈集』に、中天竺國般若三藏とあるのは、想ふに、この三藏が主として中天竺で修業した故であらう。『宋高僧傳』の卷二に、迦畢試の智慧を收め、卷三に※[#「よんがしら/(厂+(炎+りっとう))」、第4水準2−84−80]賓の般若を收めてあるが、之は何れも同一の般若三藏を指したものかと疑はれる――天竺を歴游した後ち、海路から廣州に來り、徳宗の建中三四年(西暦七八二―七八三)の頃に長安に到着した。長安で偶然その近親の羅好心――羅好心の父は般若三藏の母の同胞で、羅好心と般若三藏とは表兄弟《ははかたのいとこ》である――とて、印度から支那に來り仕へて、近衞の將軍に出身して居る者に邂逅して、その家に厄介になつて居る間に、大秦寺といふネストル教の寺の僧景淨と協力して、胡本六波羅密{多}經を漢譯した。胡本とは榊博士の講演にも申述べられてある如く、恐らく中央アジアのソグド語の佛典を指すのであらう。ソグド語とは西暦九世紀の頃まで、廣く中央アジア一帶に行はれたイラン語系の言葉で、その文字はシリア文字と略同樣で、横書ながら梵語とは反對に、右から左へ書くのである。漢譯佛典の原本に梵・胡の區別がある。胡とはソグド語に限つた譯ではないが、ソグド語も胡語の中に攝收されて居る。
 支那の記録に據つても、又イスラム教徒の記録を見ても、中央アジア一帶の地に、古く佛教が流行して居つた。爾後マニ教やゾロアスター教や、最後にイスラム教が侵入するに從ひ、佛教の勢力は次第に衰退したけれど、西暦八世紀の半頃、即ちほぼ般若三藏の時代までは、細々ながらその法運を維持して居つた。さればこそ中央アジア地方に行はれた、ソグド語の佛典も存する譯である。
 併し般若三藏が景淨と共譯した、最初の六波羅密多經は、種々の點に於て不完全であつた。第一般若三藏は佛教に達すれども、胡語・唐語(支那語)を知らず、景淨は胡語を知れども、佛教に達して居らぬから、この二人が協力しても、到底完全なる翻譯が出來る筈がない。かくして般若三藏は貞元四年(西暦七八八)に、新に梵本から六波羅密多經を譯した。これが今日に傳はる所の『大乘理趣六波羅密{多}經』である。元來この般若三藏は日本へも渡航布教の志を懷いて居つた人故、大師に對して特別の眷顧を垂れ、その譯出した『新譯華嚴經』『大乘理趣六波羅密{多}經』等を始め、梵夾三口を授けた次第は、『御請來目録』に載せられて居る。
 この般若三藏の相手となつた大秦寺の僧景淨といふは、徳宗の建中二年(西暦七八一)に建設された、かの有名な大秦景教流行中國碑文を撰述した人である。景淨の本名をアダム(Adam)といふ。彼の建設に關係した景教碑は、唐時代に於けるネストル教が支那に流行した來歴を明かにしたもので、耶蘇教國民にとつて忘れ難い好箇の記念物である。從つて歐米諸國民は、この景教碑に對して、吾人の想像以上の執着をもつて居る。嘗て在北京の外交團が一致して、支那政府にこの碑の保護を交渉したことさへある。今より十四五年前の明治四十年に、デンマークの學士|何樂模《ホルム》(Holm)といふ人が、英米二國で資金を作り、この景教碑を買收する目的で長安へ出掛けた。この計畫は種々の故障によつて、遂に實現を見なかつたが、その何樂模氏は長安で、景教碑の原物と同質同大の模造碑を作り、之を米國へ持ち込んだ。この事件の爲に、一時支那の官民は大騷をしたことがある。丁度この事件の最中に、私が偶然長安へ參つたので、この景教碑とは可なり深い因縁を作つた。その委細の事實は、明治四十三年四月の『藝文』に發表して置いた。何樂模氏とは行違つて面識はないが、どこからか私のことを聞き知つたと見え、明治四十五年に、態※[#二の字点、1−2−22]書信を寄せ、景教碑の模造碑を作つた爲、歐米の教界・學界から、幾多の表奬を受けたから、喜んでくれといふ鄭重な挨拶があつた(「大秦景教流行中國碑に就いて」)。
 長安に現存する景教碑の本物以外に、近年その模造碑が世界に二個出來た。一つは上述の明治四十年に、何樂模氏の作つたもので、久しく米國のニューヨークの中央博物館に陳列されてあつたが、近頃ローマの教皇廳へ移轉されたといふ。今一つは明治四十四年
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