た唐時代に、或は丹青を以て、或は鑄金を以て、供奉博士に推された人々の、技能の拔群なるべきは贅言を要せぬ。從つて大師が携帶歸朝された、此等の曼荼羅・佛具は、單に藝術的方面から觀ても、大いに貴重すべきものと思ふ。
 勿論大師はこの曼荼羅・佛具を作る爲に、此等藝術家に尠からざる報酬を支拂はれたことであらう。數多き藝術家の中には、銅臭を帶びた者も皆無とはいへぬ。現に慈覺大師の入唐の時、同じく青龍寺に滯在して、畫工を雇ひ佛像を畫かしめんとしたが、報酬多からざる爲、一時拒絶された事實もある。當時大師の御手許は決して豐富でなかつた筈と想ふ。由來精神的事業に出金を惜むのが、日本政府及び日本國民の古今の通弊である。
 唐時代に於ける我が留學生及び學問僧の待遇は、委細のことは知り難いけれど、決して十分でなかつた。大師が同伴の橘逸勢の爲に、日本國使へ學資窮乏を申出られた、「爲[#二]橘學生[#一]與[#二]本國使[#一]啓」の中に、
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日月荏苒、資生都盡。此國所[#レ]給衣糧、僅以續[#レ]命、不[#レ]足[#二]束脩讀書之用[#一]。若使[#三]專守[#二]微生之信[#一]、豈待[#二]廿年之期[#一]。非[#三]只轉[#二]螻命於壑[#一]、誠則國家之一瑕也(『性靈集』卷五)
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と述べられて居るに據ると、當時の留學生は、支那政府から支給さるる衣食に由つて露命を維ぐのみで、積極的研究などの餘裕のなかつたことが判る。大師も略之と同樣の待遇かと想ふ。
 かかる境遇の間に一流の藝術家を雇ひ、佛畫佛具を作り、幾多の筆生を雇うて經文を寫すのは、中々容易のことであるまい。現に大師が歸朝の途次、浙江の越州(今の會稽道紹興縣)に立ち寄られ、越州の地方長官に經典の蒐集を依頼された時の「與[#二]越州節度使[#一]求[#二]内外經書[#一]啓」に、
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今見於[#二]長安城中[#一]、所[#二]寫得[#一]經論疏等凡三百餘軸、及大悲胎藏金剛界等大曼荼羅尊容、竭[#レ]力涸[#レ]財、※[#「走+尓」、読みは「ちん」、376−7]逐圖畫矣。然而人劣教廣、未[#レ]拔[#二]一毫[#一]、衣鉢竭盡、不[#レ]能[#レ]雇[#レ]人、忘[#二]食寢[#一]勞[#二]書寫[#一](『性靈集』卷五)。
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と告白されて居るではないか。大師をして、逸勢をして、此くの如き窮乏の裡に求法講學せしめた、當時の日本政府の處置は、今日から觀て甚だ遺憾に堪へぬ。併しこはさきに申置いた通り、古今を通ずる我國の缺陷である。千百年後の大正の今日と雖ども、この缺陷は格別改良されて居らぬ。四五日前の新聞紙に、ドイツのマルク爲替相場が下落したから、在獨の日本研究員は、大盡暮らしをして居るといふ記事があつたが、これは一時的現象に過ぎぬ。名義こそ從來の留學生は在外研究員と改良されたが、實際の待遇は、到底陸海軍等の在外研究員と比較出來ぬ程愍然たるものである。私も二年間の支那留學中、可なり苦しい境遇に在つたから、この點に就いては、特に大師に同情申上ぐる次第である。
 かくする間に、その年の十二月十五日に、惠果阿闍梨は老病を以て遂に入寂された。大師が就いて請益されてから、正しく半歳の後に當る。若し大師の入唐が半年後くれたならば、永遠に阿闍梨に請益の機會を失はれた筈である。大師は延暦二十三年の五月に入唐の勅許を受け、その六月に難波津を發船して、翌七月に支那に渡航されたのである。かかる都合よき遠征は、當時で申せば稀有の幸運である。多くの場合は風待ちの爲に、半年か一年、時には二年をも空費せなければならぬ。傳教大師の如きも、延暦二十二年に入唐の豫定が、一年延期を餘儀なくされて居る。たとひ大師が首尾よく入唐されても、若し惠果阿闍梨が半年早く入寂されたならば、水魚の關係に在るこの二方は、永遠に會合の機會を失はるべき筈であつた。萬一かかる場合ありとせば、大師の爲にも、惠果阿闍梨の爲にも、一大不幸なるべきは勿論、第一日本の宗教界にとつて、想像以上の大損失であらねばならぬ。かく考へると、大師と阿闍梨との會合こそ、實に千歳の一遇と申すべきであらう。
 惠果示寂の後ち、大師はこの恩師の爲に碑文を作られた。『性靈集』卷二に收めてある、大唐神都青龍寺故三朝國師灌頂阿闍梨惠果和尚之碑がそれである。一體大師の文章は、時代の風尚を受けた四六駢儷體で、この碑文も勿論同樣であるが、今日傳はれる大師の文章の中で、尤も傑出したものの一つであらう。これは文學隆盛の支那の本場で、一外國の沙門の身を以て、名譽ある文章を作るといふので、隨分苦心された故もあらうが、同時に衷心から恩師に對する思慕景仰の念の深厚なる故と思ふ。
 大師の入唐中第一に恩顧を受けたのは、上述の惠果阿
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