。現に大師より約五十年後に入唐された智證大師なども、この難處では可なり苦勞されて居る。我が大師も往復ともにこの地を經過された筈であるから、定めて辛苦を嘗められたことと想像して間違ない。
 ※[#「石+夾」、第4水準2−82−38]石から更に西へ二日路で、有名な函谷關に差し掛る。我が二里許りの間は、兩側壁立千仭といふ有樣で、その間に辛く一馬車を通ずる事が出來る。實に函谷の名に背かぬ。それで三町位の間隔で、處々に崖を切り開き、兩馬車が途中で行違ふ時に、一つを避け一つを過ごす餘地を作つてある。この函谷關を通過する間は、馬方は絶えず一種の大聲を揚げて、前方から來る馬車を警戒する。その聲を聞いた馬車は、今申した廻避の場所で待ち合せて、雙方行違ふのが習慣となつて居る。性急な私共は、この慣習を無視し、前方から聞えて來る掛聲も構はず、躊躇する自分の馬方を叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]して、無理に前進さしたこともあるが、因果|覿《てき》面で、行違の餘地のない途中で馬車が出合ひ、全く進退に窮した。愈※[#二の字点、1−2−22]かかる場合になると、そこは悠長な支那人のこととて、雙方の馬方が鋤鍬など取り出して、崖を切り崩して、行違ひ出來るだけの場所を作る。その出來上る迄は、二時間でも三時間でも、否應なしに辛抱せなければならぬ。性急な爲に、却つて夥しい時間を空費した、馬鹿々々しい失策である。
 函谷關から西へ、二日程で例の潼關に達する。丁度大師より五十年程以前の天寶の亂に、官軍と賊軍とが、天下分け目の大戰をした場所である。潼關以西は普通にいふ所の關中の地で、道路も平坦に廣濶になつて來る。潼關から三日程前進すると、今の臨潼縣で、ここに驪山の温泉がある。唐の玄宗が楊貴妃と遊宴した場所で、白樂天の「長恨歌」や鄭嵎の「津陽門詩」に詠まれて、忘れ難い史蹟である。大師の時代には、まだ天寶の盛時を親覩した故老も多く存せしなるべく、且つは長安への往還に必經の道筋に當れば、大師もここでは定めし徘徊顧望されたことであらう。
 驪山の温泉の所在地から、日本里數で三里許り往くと※[#「さんずい+霸」、第3水準1−87−33]水の滸《ほとり》に出る。この川幅は二町に近い。川に※[#「さんずい+霸」、第3水準1−87−33]橋が架してあるが、その橋の兩側に楊柳が多い。唐時代に長安から東へ旅立する時には、友人達が是處で柳を折つて別を惜しみ、長安から西へ旅立する時には、友人達が渭水の畔に到つて、別を惜しむ風習があつた。大師も長安で滿一年餘り留學ののち、その東歸の日に、定めて僧俗の友人達と、この河畔で別離を惜しまれたことと想ふ。
 ※[#「さんずい+霸」、第3水準1−87−33]水から更に我が一里程行くと、愈※[#二の字点、1−2−22]長安の郊外に達する。ここに長樂坡といふ長さ一町餘りの坂がある。唐時代に長安出入の人々を、ここでも送り迎をした。徳川時代の江戸に對する品川といふ場所である。我が大使一行は、十二月二十一日にここに到着した。『日本後紀』卷十二に、この光景を記して、
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十二月二十一日、到[#二]上郡長樂驛[#一]宿。二十三日内使趙忠、將[#二]飛龍家細馬二十三匹[#一]迎來。兼持[#二]酒脯[#一]宜慰。駕即入[#二]京城[#一]。
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とある。長樂驛とは、『長安志』卷十一に、長樂驛在[#二]{萬年}縣東十五里、長樂坡下[#一]といへる如く、この長樂坡に在つた。我が一行は長樂驛で二日間休憩いたし、唐の宮廷より出迎に派遣さるる使者を待ち合せ、その案内にて、行列を正して長安城に入つたのである。『高野大師御廣傳』上に、當時の有樣を記して、
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給[#二]大使[#一]以[#二]七珍鞍[#一]。次使等給[#二]粧鞍[#一]。十二月二十三日、到[#二]上都長安城[#一]。(中略)入[#二]京華[#一]之儀、不[#レ]可[#二]記盡[#一]。見者滿[#二]遐邇[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
とあるを併せて參考すべきである。長安の東面には、北・中央・南の三城門が開けてあるが、大師は當然中央の春明門から入城された。かくて延暦二十三年即ち唐の徳宗の貞元二十年十二月の二十三日に、大師は年來渇仰されて居つた長安に到着されたのである。その滿足の程、推察に餘りありと思ふ。

     (五)唐代の長安

 唐時代の長安の位置を研究すべき材料は、唐宋以來その書に乏しくない。但し多くは舊記を羅列したのみで、實地の踏査や測量を忽にして居るから、參考の價値が甚だ少ない。中に就いて清の嘉慶年間編纂の『咸寧縣志』『長安縣志』に載する所の、唐代の京城の考證は尤も出色で、記録と實地を併せ考へ、古今の對照やや眞を得たるに庶幾《ちか》い。
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