て十一月の三日に、始めて入京の許可を得、遣唐大使以下我が大師を加へて二十三人だけ、福州から長安に發向いたし、その以外のものは、當分福州に滯在して、明年の三四月に、大使一行が長安から明州に到着する頃に、明州へ廻航することとなつた。

     (四)長安途中

 我が大使大師の一行が福州から長安に往くのに、如何なる道筋を採られたかは明瞭でない。當時の記録にこの道筋のことが一切見えて居らぬ。されど私ども專門家の立場から申すと、交通道路は略一定して居るから、この一行のとられた道筋も大體の見當はつく。大師等は恐らく※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]江の流を溯つて、今の南平縣・建安縣・浦城縣を經て、浙江省に入り、大體に於て錢塘江の流に沿うて、今の浙江省錢塘道杭縣即ち唐時代の杭州に出られたことと想像する。福州杭州間の距離は約千六百六十{支那}里で、即ち十七八日の行程である。私はこの道筋に就いては、何等の體驗がないから、何事をも申述べることが出來ぬ。

       (A)水路

 杭州は隋の煬帝の開いた運河の最南端に在る。この方面での一都會で、名勝に富み、古刹も尠くない。支那では東南澤國とも、北馬南船とも申して、浙江・江蘇方面は一體に水利の便が開けて居る。杭州から水路約三百五十{支那}里往くと蘇州で、姑蘇の寒山寺の所在地として、日本人によく知られて居るのみならず、唐・宋時代に日本人の終始往來した所である。蘇州の産で、金石學者として聞えた、清末の葉昌熾に據ると、蘇州城外に、日本國使の墓と傳へらるる古墳があり、又その殘碑もあるといふ。近時蘇州に往來する日本人は中々に多いが、未だ誰人もこの遺蹟を踏査せぬ樣である。蘇州から更に水路を往くこと三百八十{支那}里で、潤州(今の江蘇省金陵道丹徒縣)に至る。宋時代から有名となつた金山寺はここに在る。ここで長江(揚子江)を渡ると、その對岸が揚州(今の江蘇省淮揚道江都縣)である。
 揚州は鑑眞和尚と特別の關係ある土地で、また隋代の史蹟も多い。大師の時代に、揚州は尤も繁昌を極めた都會で、その時分に揚一といふ諺があつた。富庶といはず、繁華といはず、すべての點に於て、揚州が天下第一といふ意味である。唐の詩人は人生只合[#二]揚州死[#一]――同じく死亡するのでも、揚州の土になりたい――とさへ申して居る。横の揚子江と、縱の運河の交叉點に當る揚州は、當時内外商賈の輻輳する所で、遠くアラビア(大食)ペルシア邊の外商も尠からずここに來集した。彼等の間には揚州はカンツウ(Kantou)として知られて居る。カンツウとは揚州の別名である江都を訛つたものと思ふ。ここには日本人や朝鮮人も多く來集した。揚子江沿岸へ入港する日本人朝鮮人は勿論のこと、揚子江以南の地へ入港する日本人朝鮮人も、皆揚州を通過して、洛陽や長安に出掛けた。自然揚州でアラビア人やペルシア人が、日本人朝鮮人のことを見聞する機會が多い。さればこそ唐の中世頃、即ち西暦九世紀の半頃のアラビアの地理書に、日本朝鮮の記事が始めて登録さるることになつた。それには日本をワークワーク(〔Wa^kwa^k〕)としてあるが、ワークワークとは倭國を訛つたもの、朝鮮をシーラー(〔Si^la^a^〕)といふのは、新羅の音譯であらう。
 此の如く運河の道筋には名都舊蹟が甚だ多いが、大使大師の一行は、一向に前途を急がれた。藤原葛野麻呂の復命に、
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星[#(ヲイタダキテ)]發星宿、晨昏兼行(『日本後紀』卷十二)。
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とある通りである。こは福州にて意外に時日を空費したから、成るべく年内に長安に到着して、使命を果さうといふ理由に本づくと思ふ。事實福州から長安まで約五千三百{支那}里――『元和郡縣志』に五千二百九十五里とある。『日本後紀』に此州(福州)去[#レ]京七千五百廿里とあるのは、間違と斷ぜねばならぬ――の長途を、四十八九日で旅行することは、支那の旅行としては、中々|忙敷《あわただし》いので、我が一行は蘇州にも、揚州にも、一日の滯在見物する暇なかつた筈と想像される。併し大師は歸朝の日も、この同一道筋をとられ、この時は往路程前路を急ぐ必要なかつた筈故、多分此等の都會を一日位は觀光されたかと想ふ。
 私もこの杭州揚州間の運河は、一部分知つて居る。その一部は汽船で、一部は支那船に乘り込んで旅行した。故に大師の御旅行の氣分は可なり味はふ事が出來る。支那では陸路の交通より水路の交通の方が、概して安樂ではあるが、これにしても人知れぬ困難が伴ふ。第一は飮料水の不潔である。支那では日本の樣な清冽な水に乏しい。運河の河筋では皆河水を使用するが、それが頗る不潔である。之に就いて私の體驗した面白い話がある。この席上での話としては、幾分不作法であるが、容赦を願ひたい。

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