少しく以前に、新に、支那に傳來した、西域の宗教の祠寺である。
波斯寺とのみでは、ネストル教(景教)の寺を指すか、又はゾロアスター教(※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]教)の寺を指すのか、一寸判定し難い。玄宗の天寶四載(西暦七四五)以後は、ネストル教の寺は大秦寺と稱することとなつて、區別は付くが、その以前の開元時代には、兩教の寺を同樣に波斯寺と稱した。併し殘缺ながら今日に傳はれる『兩京新記』の内容を調査すると、波斯寺二とある中の一つは、右街の醴泉坊に在る波斯胡寺で、これは高宗の儀鳳二年(西暦六七七)に、當時唐の保護を受けて居つたペルシア王|卑路斯《ピールーズ》の爲に建立したもので、ゾロアスター教の寺である。今一つは同じく右街の義寧坊に在る波斯胡寺で、これは唐の太宗の貞觀十二年(西暦六三八)に、ネストル教の僧の阿羅本《オロパン》の爲に建立したもので、かの大秦景教碑に、有司即於[#二]京義寧坊[#一]、造[#二]大秦寺一所[#一]――ここに大秦寺といふは、天寶四載以後の名稱に據つたものである――とあるもので、ネストル教の寺を指すこと疑を容れぬ。
胡※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]祠とあるのもやや曖昧である。『兩京新記』の本文を見ると、右街の布政坊にある胡天祠は、高祖の武徳四年(西暦六二一)に、西域の胡天神を祀る爲に建てたといふ。『佛祖統記』卷三十九に據ると、波斯人拂多誕――フランスのゴーチオ(Gauthiot)氏は拂多誕とはペールヴイ語(中古のイラン語)で、法師の意味をもつフルスタダーン(〔fura※[#キャロン付きS小文字、1−10−18]tada^n〕)といふ言葉の音譯で、固有名詞であるまいといふ――が始めて唐にマニ教を傳來したのは、武后の延載元年(西暦六九四)であるから、その七十年前に建立された、この布政坊の胡※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]祠は、勿論ゾロアスター教のものと認めねばならぬ。大師の入唐より約二十年後に作られた、舒元輿の唐鄂州永興縣(今の湖北省江漢道陽新縣)重巖寺碑銘(『全唐文』卷七百二十七)に、當時支那國内に行はれた、外來の三宗教の摩尼(末尼)と大秦(景教)と※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]神(胡※[#「しめすへん+天」、第3水準1−89−22]・火※[#「しめすへん+天」、第3
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