れて居る程、しかく外國人を毛嫌せぬ。否、公平に觀て、支那人は世界の中で、尤も異種族排斥の偏見を脱却した國民ともいへる。支那人の理想によると、支那の皇帝は天の代理者として四海に君臨すべき筈である。支那の皇帝は、あらゆる種族を一視同仁に取扱ふべき責任をもつて居る。從つて遠人を懷柔し、四夷を咸賓せしむることは、支那皇帝たる者の一の必要な資格とさへ認められた位である。故に歴代の支那政府は、外國の留學生を觀迎して、彼等に種々なる便宜と補助とを與へた。しかのみならず多くの場合、外國人をも自國人同樣、何等の差別なく官吏に任用して居る。
支那人は古代から楚材晉用――外國の人材を自國の爲に登庸して利用する――主義を實行した。西域人や塞外人で、支那に仕へて大臣・顯官に登つた者は、唐以前にもその實例が尠くない。殊に唐時代には、尤も自由に、尤も多數に、外國人を任用した。我が阿倍仲麻呂(仲滿)や、藤原清河(河清)が、唐の玄宗や肅宗に寵用されたことは、我が國史に喧傳されて居るが、唐の歴史を通覽すると、かかる事例は寧ろ普通であつた。
『新唐書』の囘鶻(囘※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89])傳に據ると、唐の武宗は宰相の李徳裕に詔して、秦・漢以來外國人で支那に支へて、功績顯著なる者三十人を選んで、その傳記を作り、『異域歸忠傳』二卷を編ましめたことがある。この『異域歸忠傳』は元以後に佚亡して、今日に傳らぬから、如何なる標準で三十人と限つたことか、又その三十人は如何なる人々を指すことか、一切不明であるが、その中に唐に仕へた外國人の多かつたことだけは想像に難くない。唐時代に新羅・高麗・百濟・渤海・契丹・突厥・鐵勒・囘※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]・吐蕃を始め、遠くは中央アジア・印度・ペルシア等の國人で、支那の朝廷に奉仕した者が頗る多い。現に我が大師と特別の關係ある、般若三藏の表兄《ははかたのいとこ》の羅好心の如き印度人が、徳宗に仕へて近衞の將軍となつて居る。その約百年前に、高宗に仕へて近衞の將軍になつたペルシア人の阿羅憾がある。外國人の中には、支那人同樣に支那の詩文・經學を修め、支那人同樣に受驗し、正途を踏んで、支那の官吏となつた者もある。北宋の初期に出た錢易の『南部新書』丙に、
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大中(西暦八四七―八五九)以來、禮部放[#レ]※[#「片+旁」、第4水準2−8
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