の外に、唐の國威と文化とを慕つて、通交した國々の數が中々多い。從つて殆ど世界各國の國使が長安に來集した。徳宗の貞元三年(西暦七八七)の頃、長安に滯在した諸國の使者だけでも、その從者を合せて四千人以上に及んだといふ。之に北塞・東邊及び南洋方面の使者を加へば、非常の多數に上る筈と思ふ。唐の宮廷に於ける此等諸外國の使者の席次が、非常に重大視せられ、時々之に關する爭論が起つた。玄宗の天寶十二載(西暦七五三)――我が孝謙天皇の天平勝寶五年――の正月元旦に、長安の大明宮(蓬莱宮)の正殿に當る含元殿に拜賀式の行はれた時、諸國使者の着席順序が左圖の如くであつたのを、我が遣唐副使の大伴古麻呂が抗議して、日本と新羅との位置を取り換へたことが、國史(『續日本紀』卷十九)に載せられてあるが、かかる事件は當時必ずしも稀有ではなかつた。大食《タージ》と囘※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]《ウイグル》と、突厥《トルク》と突騎施《トルギス》との間にも、國使の謁見順序について爭を起こし、唐廷はその處置に當惑のあまり、東西二門を開き、兩國使を同時に謁見せしめて、爭議を解決したことがある。かかる事件の起るのも、畢竟當時諸外國の間に、長安を世界の外交の本舞臺と認めてをつたからであらう。
[#図1、諸国使者の着席順序]
 右の如き状態故、一旦唐の宮廷又は政府に吉凶があると、世界各國から慶賀もすれば又弔慰もする。高宗の崩御の際、諸蕃酋の親しく來弔する者六十一人もあつた。その記念に石を以て彼等の肖像六十一を作り、高宗の陵前に列した。高宗の陵は乾陵といひ、長安の乾(西北)の方向、三日程の距離の乾州(今の關中道乾縣)附近に在る。千二百餘年後の今日に至つても、乾陵の諸蕃酋の石像は依然として存在して居る。私の調査した時には、東側の蕃酋二十四、西側二十九を算した。玄宗の末年に、所謂天寶の亂が起つた時、西は遠く大食を始め、中央アジアの諸國、北の囘※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]等皆兵を出して唐を助けて内亂を鎭定した。我が國も唐の請求に應じて、兵器を供給すべく努力したことがある(『續日本紀』卷廿三)。これは凶事の場合の例だが、吉事の場合にも同樣であつた。
 長安の國子監は、今日で申せば帝國大學に當るが、その國子監へ高麗・新羅・百濟・高昌・吐蕃・渤海・日本の諸國から、留學生が來集した。支那人は世間普通に想像さ
前へ 次へ
全35ページ中19ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング