種の政略も含まれて居つたかも知れぬ。
 或は始皇帝の專ら刑法に依頼して、仁義を蔑視するのを非難する者がある。如何にも始皇には多少刻薄少恩の憾ないではない。しかし彼は法家の信者である。法家には仁義が禁物である。かく考へると、始皇が孔孟仁義の道を忽にしたのも、誠に已を得ざる次第といはねばならぬ。一體春秋から戰國にかけては、亂臣や賊子の輩出した時代で、君主の位置は甚だ不安であつた。そこで成るべく君主に多大の權力を與へて、油斷ならぬ臣民――人性を惡と觀ずるのが法家の説である――を威壓して、國家の安全を保つといふのが法家の主張で、この主張は孔孟の學説よりは、確に時代の要求に適して居つた。等しく儒學の正統と自稱せるに拘らず、孔子の主張した仁は、孟子になると義と變じ、荀子に至ると更に禮に變ずるといふ風に、儒家の教義が次第次第に具體的となり、又消極的となつて來たのは、全く當時の外界の事情に促された變化である。老子はその『道徳經』のうちに、
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失[#レ]道而後徳。失[#レ]徳而後仁。失[#レ]仁而後義。失[#レ]義而後禮。
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と述べて、この順序で世間が段々と
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