絶對、あらゆる點に於て、下民と儼然たる區別がなければならぬといふ信條から、彼は六國統一の年に、君主のみに限り使用し得べき名稱を制定した。その四五の實例を示すと、
 (イ)皇帝 始皇帝以前の君主は皆王と稱した。夏・殷・周三代の君主は、何れも王と稱して居る。所が春秋時代となつて、周の王室が衰微すると、楚・呉・越等南蠻の國君が王號を僭し初め、降つて戰國時代となると、中國の諸侯達も亦之に倣ひ、最後に陪臣より諸侯となつた韓・魏・趙の三晉の君すら王と稱して、王號の價値は甚だ低落して來た。そこで國富み兵強き大諸侯は、最早王號では滿足出來ず、別に他の美號を稱したものもある。始皇帝の曾祖父に當る昭襄王が、齊の※[#「さんずい+緡のつくり」、第4水準2−78−93]王と約して、一時相並んで、西帝東帝と稱したのもこの理由に本づく。六國を討平し海内を混一した始皇帝が、今更王號や帝號を襲ぐを潔とせず、新に一層の美號を採用せんとするのは、必然の要求といはねばならぬ。かくて彼は群臣の意見を參酌し、その功徳は古の三皇五帝を兼ねたりとて、皇帝と稱することとなつた。
 (ロ)朕 先秦時代には朕は一人稱として、上下の區別な
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