臣の怨府となつて居るかは、彼自身は萬承知して居る。前には荊軻の匕首閃き、後には張良の鐵椎が投げられた。尋常一樣の君主であつたら、必ず警戒して出遊せぬ筈であるが、彼は何等顧慮する所なく、連年巡幸を繼續した。支那流に膽斗の如しと讚しても差支なからう。
始皇は又世人の設想とは反對に、よく人の諫を容れた。二三の實例を示すと、第一が※[#「女+繆のつくり」、読みは「ろう」、522−10]※[#「士/毋」、読みは「あい」、522−10]《キウアイ》事件である。※[#「女+繆のつくり」、読みは「ろう」、522−10]※[#「士/毋」、読みは「あい」、522−10]は太后の寵を負ひ、亂を起して失敗し、その黨與は皆重きに從つて處分せられ、太后もこの關係から雍の離宮に移された。この母后の處置につき、齊人の茅焦が死を冒して苦諫した時、始皇は殿を下り、手から茅焦を扶け起し、その諫を聽き、母を咸陽に迎へ取つて、舊の如く厚遇したことがある。
第二は逐客事件である。始皇は宗室大臣の意見により、他國の産で秦に來り仕へ居る者は、信用し難いといふ理由から、一切之を放逐することにした。この時楚人の李斯は上書して、逐客の
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