のことである。この種族は上古から絶えず漢族を劫掠して、尠からざる迷惑を加へて居る。周の祖先の古公|亶父《タンポ》が、岐山へ避難したのも、※[#「けものへん+熏」、第4水準2−80−53]鬻の爲である。西周末の詩人が、靡[#レ]室靡[#レ]家と嗟嘆したのも、※[#「けものへん+僉」、第4水準2−80−49] ※[#「けものへん+允」、第4水準2−80−30]の爲である。始皇帝は天下一統の後ち、蒙恬《モウテン》を將として兵三十萬を率ゐて匈奴を征伐せしめて、悉く之を黄河以北に驅逐した。攘ひ斥けた地面に三十四縣――或は四十四縣とも傳ふ――を置き、ここに漢族數萬家を移住せしめ、所謂萬里の長城を築きて、華夷の疆界を嚴重に限定した。
北狄の侵入に對して長城を築くことは、必ずしも始皇帝の時に創つたのではない。『詩經』によると、西周の末頃から、朔方に城きて※[#「けものへん+嚴」、第4水準2−80−56]※[#「けものへん+允」、第4水準2−80−30]を防いで居る。降つて春秋戰國の交から、秦・魏・趙・燕等北邊の諸國は、相繼いで北狄を防がん爲に、長城を築いたことがある。始皇帝は幾分これら以前の長城を利
前へ
次へ
全37ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング