の字点、1−2−22]その先代の政を繼承せしを始め、その他の列國でも、悉くは中央政府の制度を循奉して居らぬ。『中庸』に今天下車同[#レ]軌書同[#レ]文といひ、『詩經』に「溥天之下、莫[#レ]非[#二]王土[#一]。率土之濱、莫[#レ]非[#二]王臣[#一]」といへるが如きは、畢竟一種の希望若くは理想を述べたるものに過ぎぬ。眞に天下劃一の政を見るを得たのは、始皇帝以後のことである。
始皇帝は六國を併合すると、法度といはず、權量といはず、丈尺・車軌・律歴・衣冠・文字まで、すべて劃一主義を※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]行した。彼が四方に立てた碑文に、或は器械一[#レ]量、同[#二]書文字[#一]と勒し、或は遠邇同[#レ]度と刻し、この點に關して得意滿面の態を示して居るのも、無理ならぬ次第である。中にも吾人の注意に値するのは、始皇帝が文字の整理に熱心なりしことである。彼は文字を統一したのみならず、またこれを改良した。複雜不便なる古文を省略して、所謂秦篆を作り、更に之を平易にして隷書を作つた。これら文字の整理によつて、當時の社會が如何に大なる便益を受け得たかは、設想に難くない。始皇帝が所在に碑を立てた目的の一半も、或は文字の統一を促す一方便であつたかも知れぬ。
〔天下巡游〕 始皇帝は天下併一の翌年、即ち彼の在位二十七年から以後、頻繁に四方に巡幸した。
二十七年 今の陝西の西部及び甘肅方面
二十八年 今の河南・山東・安徽・湖北・湖南方面
二十九年 今の河南・山東・山西方面
三十二年 今の直隷・山西方面及び陝西の北部
三十七年 今の湖北・湖南・江蘇・浙江・山東方面
彼はかく四方を巡行しつつ、到る處に秦の頌徳碑を立てた。有名な※[#「山+繹のつくり」、第3水準1−47−91]山《エキザン》の碑、琅邪臺の碑、之罘《チーフー》の碑、泰山の碑、會稽山の碑等は、皆この時に立てられたもので、何れも秦が四海混一した功徳を勒してある。秦は六國を併合したものの、六國の遺臣や遺民は、決して一朝に秦に心服するものではない。そこで天下の耳目を新にする必要が起る。始皇帝が頻年四方を巡游した目的も、畢竟六國割據の餘風を打破して、彼自身が決して秦一國の君でなく、四海の共主であることを、天下萬民に會得せしめん爲で、極めて時宜に適當した政略といはねばならぬ。清の康煕・乾隆二帝が、屡※
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