餘名を捕虜にした事件は、頗る世界各國を驚殺させた。パリにワシントンに、民國の顧維鈞氏等が先頭に立つて、支那の覺醒を大呼宣傳した直後ではあり、支那の覺醒に多大の信頼を置いた諸外國人、就中もつとも支那を買被つて居つた米國人等は、この現實の暴露に狼狽し喫驚《びつくり》したのは無理でない。彼等がこの列車に一人の日本人も便乘して居なかつたといふ偶然の事實に揣摩を逞くして、或は日本人が土匪を指嗾したのではなからうかなどと疑惑を挾んだ者があつたに由つても、彼等の狼狽さ加減が推測される。
 併し此の如き事件は支那歴史上尋常の出來事である。殊に臨城附近の山東省西南部一帶の地は、古代から匪盜の叢窟であつた。曹〔州〕濮〔州〕――何れも山東省の西南地方――人といへば直に盜賊を聯想する程であつた。かの有名な水滸傳の中心舞臺として世に聞えた梁山泊も、實に此地方に在つた。水滸傳は小説としても、梁山泊の劇賊宋江等の事蹟は當時の事實である。明清時代を通じてこの遺風は改まらなかつた。膠州の徳人(ドイツ人)と黄河の氾濫と曹州の匪徒は、清末山東の三厄と稱せられた。臨城事件は畢竟覺醒したと稱せらるる現代の支那も、その内情は舊態その儘であるといふ一證據を提供したに過ぎぬ。
 無職の窮民が多く、同時に警察の不行屆な支那では、古來土匪や流賊が多い。必ずしも山東の一角に限らぬ。支那政府は少し手剛い土匪や流賊等に對しては、多くの場合、之を退治するよりは先づ之と妥協する。即ち利禄と官職とを以て彼等を誘ふのである。支那の記録にはこの妥協に誘ふことを招安といひ、この妥協に應ずることを歸順といふ。招安とか歸順とか文字は立派であるが、その内實は政府は征伐の危險を避ける爲め賊徒は利禄の安全を得る爲め、雙方妥協するに過ぎぬ。招安や歸順の實例は支那の何れの時代にも見出すことが出來る。それで宋時代から「欲[#レ]得[#レ]官。殺[#レ]人放[#レ]火。受[#二]招安[#一]」といふ諺があつた。放火殺人を行ひ、成るべく暴れ廻つて政府を手古摺らせ、然る後ち歸順に出掛けるのが、官吏となる出世法の一番の捷徑といふ意味である。隨分亂暴な諺だが、これが支那の實際である。現に臨城事件を起した土匪の如きも、政府を威嚇して招安に應じ、その六月十二日に首尾よく目的を達し、捕虜を解放すると交換に、一同軍隊に編入せられ、土肥の頭目は旅團長に、以下身分に應じて
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