髮を保護せんが爲に、身命を賭して韃靼軍に抵抗して、遂に彼等を錢塘江以北に撃退した。(27)
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Martini 自身は當時もと仕へて居つた明の唐王の許を辭して、南浙江に居つたが、温州陷落の時、韃靼軍の手に歸して、遂に辮髮・胡服に姿を變へた。
 清の順治五年(西暦一六四八)に起つた、江西の總兵金聲桓の叛――清軍の南方經略に一時尠からざる障碍を與へた事件――の眞相は、支那の史料ではやや不明瞭であるが、Martini によると、矢張り辮髮に關係してゐる。金聲桓が嘗て觀戲の際、俳優の著けた支那古代の服裝を賞讚したのが、彼の政敵によつて、滿洲の服裝に不滿を懷く者と誣告せられ、罪を得んことを恐るる餘り、遂に兵を擧げたのである。
 『韃靼戰記』の中で、今一つ注意すべき記事は、清朝の朝鮮に辮髮を強制せんとしたことである。その記事によると、最初朝鮮が清朝に服從した時、衣冠はその舊に依る約束であつたに拘らず、後に清朝は舊約を無視して、朝鮮に辮髮・胡服を命じたから、朝鮮は之に不平を懷き、その羈厄を脱せんと企てた。然しこの事件は Martini の支那出發間際に起つたので、その後の消息を詳にせぬといふことである。(28)
 この記事には年月を繋けてないが、彼がローマへ出發する西暦千六百五十年頃の出來事なるは疑を容れぬ。西暦千六百五十年頃は、正しく朝鮮の孝宗時代に當つて、當時朝鮮と支那との國際關係頗る不穩の状態を呈し、已に順治七年(西暦一六五〇)には、清廷より朝鮮に對して、「其修[#レ]城集[#レ]兵整[#二]頓器械[#一]之事、※[#「山/而」、第4水準2−85−6]《モツパラ》欲[#二]與[#レ]朕爲[#一レ]難也。(中略)朕惟備[#レ]之而已。夫復何言」といふ勅諭を發して居る位である(29)。されどこの紛爭は衣冠の變更とは關係ない樣に思はれる。一寸清・韓の史料を調査した所では、Martini の記事を其の儘に信用する譯にはいかぬ。或は Martini の訛傳か、或は吾輩の調査の不行屆かは、更に他日の研覈に待たねばならぬ。
 Martini は支那から歐洲への歸途に、Batavia に立ち寄つて、そこの蘭人に明が滅び、新に興つた清朝はむしろ海外通商に好意を有する由を告げた。之に動かされて蘭人は清朝へ使節を派遣することとなつた。西暦千六百五十五年に派遣された使者一行は、翌千六百五十六年(順治一三)の七月に北京に入り、順治帝に拜謁して居る。この一行に加つた Nieuhoff の記録によると(30)、直隷・山東の二省は、初め極めて柔順に韃靼軍に歸服したが、一旦辮髮の令が出ると共に、俄然大抵抗を企て、その頭髮を保護せん爲に、幾千の死人を出して居る。北支那でも當初辮髮反對熱の隨分高かつたことがわかる。

         六

 時は一切を軟化せしむる魔力をもつて居る。最初死ぬ程辮髮を嫌つた漢人は、流石に康煕の末頃までは――Careri の『世界一週記』にも明記せるが如く(31)――頗る辮髮を喜ばなかつたが、雍正・乾隆・嘉慶と年を經る儘に、次第に辮髮に慣れて來て、果ては髮の編み樣、頭の剃り樣に、追々流行を競ふ有樣となつた。清の中世以後となると、漢人がその辮髮を大切にすることは一通りでない。五天一打辮子、十天一剃頭とて、五日毎に一囘辮子を編み直し、十日毎に一度頭髮を剃るのが、普通であるけれども、之では滿足出來ぬ者が尠くない。天子諒闇の時は、可なり長い期間、臣民は一切剃頭出來ぬ規定であるが、この期間を待ち詫び、官憲の目を掠め、或はその默許を得て、剃頭鋪《かみそりや》に立ち寄る者が甚だ多い。咸豐帝崩御の際に於ける光景は、當時北清在留の英人の手によつて傳へられて居る(32)。光緒帝崩御の時の實況は、吾が輩の親しく經驗した所である。
 されば長髮賊の亂の時代には、江南の漢人でも、容易にその辮髮を改めることを肯かなかつた。今囘中華民國が建設された當初、嚴しく辮髮を排斥して、官吏學生の間には、可なり斷髮が實行されたが、民間ではまだまだ辮髮が勢力を持つて居る。特に北支那に於て左樣である。昨年一、二月の交、マレー半島に於ても、ジャワに於ても、在留支那人間――勿論江南の漢人が多いが――に大騷動が起つたが、その最大原因は、辮髮と斷髮との爭であつた。その後引續いて起つた支那内地の紛擾も、辮髮に關係したものが尠くない。舊革命黨側の人々は、或は北京で斷髮強制會を結び、或は參議院に斷髮※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]行法を出したけれども、その結果は要するに失敗に終つた。今日でも北京在住民の約五分の四は、依然辮髮者と傳へられて居る。この樣子では辮髮の命脈は、意外に長く持續するかも知れぬ。
 支那では髮厄又は髮禍といふ熟字が出來て居る。全世界に於て、漢人程頭髮
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