ェ廣く行はれて居る。この人肉を※[#「やまいだれ+祭」、第3水準1−88−56]疾の良劑として紹介したのは、唐の開元時代の明醫、陳藏器の『本草拾遺』にはじますといふ。『新唐書』卷百九十五の孝友傳の序に、
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唐時陳藏器著[#二]本草拾遺[#一]。謂。人肉治[#二]羸疾[#一]。自[#レ]是民間以[#二]父母疾[#一]。多※[#「圭+りっとう」、196−12][#二]股肉[#一]而進。
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と記してある。ほぼ同一の記事が北宋初期の錢易の『南部新書』辛に見えて居るから推すと、『新唐書』は『南部新書』に本づけること疑を容れぬ。歴史を調査しても、唐以前に醫療の目的で人肉を食用した事實は、殆ど見當らぬ。絶無と迄は斷言出來ずとも、先づ絶無に近い。『南史』の孝義傳、『北史』の孝行傳、列女傳を見渡しても股肉を※[#「圭+りっとう」、196−15]つて、その父母舅姑の療病に供したものは、一人も見當らぬ。
 所が『新唐書』の孝友傳に、始めて父母の疾病を醫療すべく、自己の肉を割いた孝子三人を載せてある。何れも唐の中世以後のものと認められる。降つて『宋史』の孝義傳、列女傳、『元史』の孝友傳、列女傳、『明史』の孝義傳、列女傳の中には、醫療の目的で人肉を食用した例證が頗る多い。陳藏器の『本草拾遺』から、この風習の俑を作つたといふことも、大體に於て事實を得たものと認めねばならぬ。さればこそ支那一流の刺股行孝といふ風習は、唐以後に限つて、隋以前に見當らぬのである。
 陳藏器の『本草拾遺』は原の儘では今日傳らぬが、後世の本草書類に引用されて居るから、その大概を知ることが出來る。支那本草を集成した、明の李時珍の『本草綱目』卷五十二にも、亦『本草拾遺』を引き、羸※[#「やまいだれ+祭」、第3水準1−88−56]の醫藥として人肉を擧げて居る。吾が輩は人肉が醫藥として、しかく有效のものであるや否やを審にせぬが、支那人の記録によると、餘程效能あるやうである。
 父母の爲、若くば舅姑の爲め、自己の股肉を割いて供した所謂孝子孝女は、唐宋以後の正史野乘を始め、各地方の通志、府縣志等に疊見して居つて、一々列擧するに堪へぬ。しばらくその一端を示す爲に、四五の事實のみを次に紹介する。
 (a)[#「(a)」は縦中横]『宋史』卷四百六十、列女傳、
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吉州安福縣
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