2−89−44]頓の如き、古代の人名まで使用して居る。此等の地名の的確なる位置は、隋時代に多く不明であつた筈と思ふ。尠くとも隋の統監部では確知せなかつた筈と思ふ。殊に滑稽なのは※[#「あしへん+(榻−木)」、第4水準2−89−44]頓である。※[#「あしへん+(榻−木)」、第4水準2−89−44]頓とは東漢末に遼東方面で勢を振つた、烏丸種族の酋長の名である。無知な統監部は、人名を地名と間違へたらしい。かかる指令を平氣で發する統監部も、かかる指令を呑氣に受ける部隊も、共に呆れ果てたものでないか。抑※[#二の字点、1−2−22]不明な地方や、存在せぬ土地へ、發向すべき命令を受けた當時の各部隊は、如何なる行動を取つたであらうか。世間では支那人を實際的といふ。それも半面の眞理であるが、同時に他の半面では、彼等は存外非實際的なところもある。戰爭の如き生死存亡に關する大事件にも、彼等は呑氣に古代の地名を使用する。不確でも不明でも、古代のものがよいといふ、支那人氣質の一端であらう。〕
 古人や先例を引き出せば、支那人は得心もし信用もするから、自然支那には古人の名に託した僞書が多い。『神農本草經』とか『黄帝素問』とか、『子夏易傳』とか『子貢詩傳』とか、或は『關尹子』或は『鬻子』等、古人の名を負ふた僞書は、一々列擧するに堪へぬ程である。世界の中で支那ほど僞書の多い國はなからうと想ふ。支那の大學者で、僞作家の嫌疑を受けて居る人が尠くない。漢の劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]、魏の王肅、隋の劉※[#「火+玄」、第3水準1−87−39]など皆それである。古書を僞作する動機は種々あるが、所詮は支那人が古書を尊信するといふことと、離るべからざる關係が存するものと思ふ。

         四 支那人の保守(下)

 支那人は一般に模倣は上手であるが、應用が不得手である。之は勿論彼等の先天的素質にもよることならんが、一は古人の手本のみに重きを置く、いはゆる依[#レ]樣畫[#二]胡蘆[#一]といふ、後天的原因も亦與つて力が多いことと思ふ。それも畢竟先例に重きを置くと同樣、型に捉はれ易い氣質をもつて居るからである。
 三十餘年間支那に居つたスミスといふ米國の宣教師は、曾て支那の教師は無冠の帝王であると評したことがある。支那では教師の一擧一動は、すべて學生の手本となるからである。支那の學生はすべて教師の授ける所を鵜呑にする。教師の身振や習癖まで眞似するのに苦心する。
 支那人の挨拶でも文章でも、その他萬般のこと、多く型に入つて居つて、時には滑稽の感を起さしむることがある。北宋の仁宗時代の事であるが、さる年洪水があつて、天子は使者を派遣して、その實地を視察せしめた。その時の使者の復命に、『書經』に堯時代の洪水の有樣を記してある文句をその儘に、蕩蕩|懷《ツツミ》[#レ]山|襄《ノボル》[#レ]陵と述べて、大眼玉を頂戴した笑話がある。明末に明の巡撫が清軍に降服した時、この巡撫は肉袒牽[#レ]羊、作法も辭令も、すべて『左傳』をその儘に眞似をしたから、さしもの清軍も大笑をしたといふ逸事もある。
 今から六七十年も前に、南支那に住んで居つたフランスの宣教師に、ユックといふ人があつた。或る用向の爲に、北京へ飛脚を差立てることになつた。その頃ユックの經營して居つた學校の支那人の教師が北京の産で、彼の年老いたる母親は、一人淋しく北京に暮らし居る。幸ひの機會であるからとて、ユックはその支那人の教師に、母親へ手紙を差出すことを注意してやつた。その教師は非常にユックの好意を感謝しつつ、直に隣室に勉強中の一學生に、
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私は自分の母親に手紙を差出さうと思ふから、御前は一つ代作してくれ。飛脚は間もなく出發する筈故、今から至急認めてくれ。
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と命令した。側に聞いて居つたユックはその教師に、
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彼の學生は君の親類でもあるのか。それとも君の母親に面識でもあるのか。
[#ここで字下げ終わり]
と尋ねると、その教師は、
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否彼は一面識もない。勿論我が母親の年齡も住所も知る筈がない。
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と答へた。ユックは一面識もない學生が、いかにして君の代作が出來るかと尋ねると、支那人の教師はさも不思議相な顏付をして、
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私は彼の學生に一年以上文章の作製法を教へた。最早書式や熟語を可なり知つて居る筈である。子から母へ差出す手紙の代作位は容易なことである。
[#ここで字下げ終わり]
と答へた。彼是する間に、さきの學生は命ぜられた通り、手紙を認め、且つ封緘して持つて來た。教師は文書の文面をも改め見ずに、その儘封筒に住所を書き添へて、飛脚に渡したといふことである。この事實は一面で
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