[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
といふ説が勝を制して、※[#「こざとへん+是」、第3水準1−93−60]防の修築は見合せとなつた。この經義とは『書經』の禹貢篇の決[#二]九川[#一]距[#二]四海[#一]、浚[#二]※[#「田+犬」、第4水準2−81−26]※[#「さんずい+會」、読みは「かい」、483−2][#一]距[#レ]川の文句を指すものかと想ふ。河口を切り開き河底を浚渫するのは治水の要諦で、格別不思議とするに足らぬが、但その論據を、二千年以前の事實を記した經書に求めた點が、支那人的で面白いでないか。〕これと類似の事例は、支那史上に頗る多く、一々列擧するに堪へぬ。
一體支那人は師[#レ]古と稱して、古代の聖賢の行ふたことでなければ[#「なければ」は底本では「なけねば」]信用せぬ。聖賢の行はぬ新事業をやり出すと、不[#レ]師[#レ]古|底《トコロノ》非行として排斥する。秦の始皇帝や、宋の王安石らの改革が、不評判であるのは、他にも原因があるが、主としてこの支那人の保守思想に適せぬからである。
是故に彼等支那人の間には、先例といふことが豫想以上の大なる勢力をもつてゐる。〔これに就いて面白い事實がある。梁の武帝時代に、領内の州を整理した所、從來中央政府の帳簿によると、百七州あるべきものが、實際調査すると、八十二州しかない。その餘の二十餘州の所在が判明せぬ。併し舊帳簿に登録してあるからといふので、所在不明の二十餘州を削除せずに、本の儘に百七州としたといふ。領内の行政區の所在不明といふのも支那式だが、更にその所在の判明せぬ州をその儘に、保存繼承した點が面白いでないか。これが支那人氣質である。〕
去る光緒二十六年の十二月(明治三十四年一月)に、西太后が陝西の西安府の行在で發布した、變法自強の上諭の中に、禍[#二]天下[#一]者、在[#二]一例字[#一]とある通り、先例に拘執繋縛されて、支那人は如何程その國運の進歩を阻害したか知れぬ。支那人は古人以外に一機軸を出して、即ち自分で先例を作り出すことを、自[#レ]我始[#レ]古とか、自[#レ]我作[#レ]故《フルキコト》とか稱するが、その始[#レ]古といひ、作[#レ]故といふ字句の間にも、明に彼等の尚古思想が見《あら》はれて居る。
古人や先例に託すれば、支那人は容易に得心するから、この弱點を利用して、惡事をなし遂げる
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