多くの場合、金帛を贈つてその歡心を買ひ、彼等の侵入劫掠を緩和するのが、歴代慣行の政策であつた。明治四十四年の秋、支那人(漢人)が革命を起して、滿人(清朝)より獨立した時の檄文に、
[#ここから2字下げ]
漢人實耕。滿奴食[#レ]之。漢人實織。滿人衣[#レ]之。
[#ここで字下げ終わり]
と憤慨の辭を連ねてあるが、この事實は決して清朝時代に限つた譯でない。支那は往古から、北狄の寶藏金庫たるべき運命をもつて居る。南北朝の末に出た突厥の他鉢可汗は、
[#ここから2字下げ]
但使[#二]我在[#レ]南兩兒(北齊と北周)常孝[#一]。何憂[#二]於貧[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
というて居る。北狄の君主は、何時もこの他鉢可汗の心を心として、支那を脅迫して榮華を盡したのである。支那にも稀には秦の始皇帝や、漢の孝武帝の如き、豪傑の君主が出て、北狄征伐をやつたこともあるが、兵を窮め、武を涜す者として、支那國民間の評判は決して宜しくない。功を異域に建てた軍人なども、餘り國内では歡迎されぬ。
西漢時代に西域の副校尉に陳湯といふ豪傑があつて、當時漢の大累をなした匈奴の※[#「至+おおざと」、第3水準1−92−67]支單于を襲ひ殺して、稀有の大功を建てたことがある。所が當時の丞相の匡衡といふ儒者は、制を矯めて――當時陳湯は遠く西域に在り、至急を要することとて、天子の許可を待つに由なかつたのであるが――兵を動かした者に賞を加へては、從來これに倣つて、事を塞外に起すもの續出すべしとて、痛くその功を抑へた。豪傑の陳湯は他の事情もあつたが、かかる大功を建てたに拘らず、その晩年は實に憐むべき悲境に陷つた。
また唐の玄宗時代に、大武軍の牙將に※[#「赤+おおざと」、第3水準1−92−70]靈筌といふ者があつて、當時塞北に跋扈して、屡※[#二の字点、1−2−22]唐を侵略した突厥の可汗の默啜の首を獲て、之を朝廷に獻じたことがある。この時にも宰相の宋※[#「王へん+景」、第3水準1−88−27]といふ者が、※[#「赤+おおざと」、第3水準1−92−70]靈筌に厚賞を加へると、年少氣英の天子に邊功を獎める結果を生ずべしとて、彼の功を抑へたから、※[#「赤+おおざと」、第3水準1−92−70]靈筌は不平と失望との爲に、遂に慟哭吐血して死んだと傳へられて居る。
支那人が文弱で怯懦であることは、古き
前へ
次へ
全19ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング