齊と北周)常孝[#一]。何憂[#二]於貧[#一]」と公言して居る。北狄の君主は何時もこの他鉢可汗の心持をその儘、支那人の妥協癖を奇貨とし、之を威嚇して榮華を貪つて居る。
西漢の初め匈奴が跋扈して支那政府がその處置に閉口した時、洛陽の才子として當代に聞えた賈誼が、その智嚢を傾けて對匈奴策を建てた。その對匈奴策とは、要するに五餌を以て匈奴を誘ふといふに過ぎぬ。五餌とは耳・目・口等の餌を設け、酒色や利禄で匈奴人の大部分を中國に誘致するをいふ。その一餌は盛裝せる幾十の美人をして、中國に來降せる匈奴人の左右に侍せしめ、匈奴人を肉團の捕虜にして仕舞ふのである。匈奴人好遇の噂を聞いては、塞外の匈奴人は先を競うて中國に投化すること疑ない。かくて匈奴の故土空虚とならば、中國の憂根絶ゆべしといふのが、一代の才子賈誼の對匈奴策の骨子である。
之と似寄りの話が明時代にもある。明の萬暦年間に、支那政府は北方の韃靼の侵略に閉口して、その對抗策に腐心した時に、瞿九思《クキウシ》といふ學者が面白い建議をした。朔北に美人なきが故に、北虜は容易に故土を離れて敵地に侵掠するのである。若し閨室に美人あらば、彼等は之を見棄
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