の門前に、賣國者記念碑を建設すべく、醵金募集に着手した。之にはさしもの陸宗輿も大いに閉口し、遂に二萬元といふ大金を排日團體に手渡して妥協を申込み、記念碑の建設を中止せしめたといふ。こは新聞紙上に見えた記事で、その眞僞は保證出來ぬが、支那人としては有り勝のことと思ふ。

         二 支那人の妥協性(二)

 妥協の流行は官界でも民間でも相違はない。支那では流賊でも馬賊でも、山賊でも、海賊でも、少し手剛いと見ると、政府は多くの場合、之を退治するよりは、先づ之と妥協する。即ち政府は以前彼等の同類たる賊徒で、現在官吏になつてゐる者の如何に榮華を極めて居るかを説き、彼等も之にならひ、一日も早く行を改め官に就くべきを勸め、利禄と官職を以て彼等を誘ふのである。支那の記録にはこの妥協に誘ふことを、招安とも招撫ともいひ、この妥協に應ずることを歸誠とも歸順ともいふ。招撫とか歸順とか文字は立派であるが、その内實政府が怯懦を藏する爲、賊徒は利禄を得る爲、雙方妥協するに過ぎぬ。招撫や歸順の實例は、支那の何れの時代にも見出すことが出來る。現在の中華民國で羽振のよい大官の中にも、かかる出身者があると傳へら
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