の例證を擧げてある。主人が奴僕の不埒を發見して之を叱責した時、若くは不埒の爲に之を解傭した時、その奴僕は彼の仲間が、彼の不埒を主人に密告したものと疑ひ、仲間に對して何かの方法によつて復讐を行ふが普通であるといふ。幾多の職工人夫を使役する時、その賃金は直接一人一人に支拂はねばならぬ。一纏として總代に渡し、總代の手より各自に分配せしむることは容易でない。彼等は中間に立つ總代が不正を行ふものと疑ふからである。此等の事實によつても、猜疑心の深い支那人の特質を察知し得るではないか。
結語
妥協性と猜疑心、これが實に支那人の二大痼疾である。この二大痼疾を剔去せねば、支那の改造は到底難事かと思ふ。妥協その者は必ずしも絶對に排斥すべきものではない。互讓の精神は如何なる場合にも寧ろ必要である。唯妥協にも互讓にも、主義や節操を忘れてはならぬ。支那人の如く主義や節操を放擲した妥協は苟合である。一時の苟合は却つて百年不安の種を播く。瓦全よりは玉碎、苟合よりは衝突の方が望ましい。孟子が抂[#レ]尺而直[#レ]尋ことを否定するのはこの故である。唐時代に兩面――『唐書』に見ゆ――といふ語がある。金時代に詭隨――『金史』に見ゆ――といふ語がある。何れも旗色のよき方に妥協して、反覆常なきをいふ。支那人は個人としても、團體としても、自己保全の方法として、好んでこの兩面詭隨を慣用するが、實に唾棄すべき所行と思ふ。猜疑の惡徳たることは殊更申述べる必要がない。
治日少而亂日多とは支那人の常套語である。支那の歴史を見渡すと、いかにも太平の日が少い。上下四千載の歴史は、梅雨期の天氣の如く、陰鬱の影多くして光霽の趣に乏しい。支那人が黄金時代と誇稱する周ですら、太平の日は僅に五六十年に過ぎぬ。その他推して知るべしである。此の如きは妥協と猜疑の必然の結果でなからうか。征伐すべきものも、鎭壓すべきものも、すべて妥協によつて一時を糊塗するから、不安の原因は何時までも根絶せぬ。根絶せぬ不安の原因は、君臣同僚彼此の猜疑によつて一層増進する。梁啓超は曾て中國の積弱は防弊――官吏を猜疑すること――に由ると説破した。之にも半面の眞理はあるが、吾が輩はこれに苟合を加へ、中國の積弱宿弊は、多く支那人の妥協性と猜疑心とに本づくものと信じたい。
近頃支那人の覺醒といふことが、新たに問題となつて來た。多くの論者は
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