の肉を割き、藥餌として之を進めることが、殆ど一種の流行となつた。政府も亦かかる行爲を孝行として奬勵を加へる。元時代にはかかる場合に、人毎に絹五疋、羊兩頭、田一頃を賞賜して旌表したといふ。
雷同性に富み、利慾心の深い支那人は、この政府の奬勵に煽られて、一層盛に人肉を使用することとなり、弊害底止する所を知らざる有樣となつた。明の太祖はこの弊風を矯正する目的で、洪武二十七年(西暦一三九四)に詔勅を發して、今後股を割き孝を行ふ者に對して、一切旌表を禁止して居る。されど之も一時のことと見え、明・清時代を通じて、自己の股肉を割いて父母に進むることは、最上の孝行として社會に歡迎せられ、政府も亦多くの場合之に旌表を加へた。民國以後の支那の新聞にも、時々かかる行爲が特別に紹介されて居る。
支那人の食人肉風習は、支那歴代の史料に記載されてあるのみでなく、同時に外國の觀光者によつて保證されて居る。唐末五代にかけて支那に渡航した、マホメット教徒の記録を見ても、その當時の支那人は人肉を食用し、その市場に於て公然人肉を販賣し、然も官憲は之に就いて何等の取締をなさざりしことが明白である。この古きマホメット教徒の記録を佛譯して、之を世間に紹介したフランスの東洋學者レイノー(Reinaud)は、この記事に疑惑を挾みて、當時支那は擾亂を極めた時代であるから、或は一時的現象として、かかる事實存在せしや知れざれど、恐らく之はマホメット教徒の訛傳で、事實でなからうと申して居る。然し之はレイノーが支那の實情に通達せざる故で、マホメット教徒の記事に何等の訛傳がない。元時代乃至明清時代に支那に觀光した、若くば支那に滯在した外國人の記録の中にも、支那人の食人肉風習を傳ふるものが尠くない。
古代に溯つて稽へると、食人肉の風習は、隨分世界に廣く行はれたらしい。されど支那の如き、世界最古の文明國の一で、然も幾千年間引續いて、この蠻風の持續した國は餘り見當らぬ。南洋諸島の間には、比較的近代まで、食人肉の風が盛に行はれて居つた。北方民族の間にも、曾て食人肉の風が行はれて居つた。支那に於けるこの蠻風は、外國傳來のものであるか、若くばその國固有のものであるかは、勿論容易に決定することが出來ぬ。唯極めて悠遠なる時代から、支那にこの蠻風の存在したことは、記録によつて疑を容るべき餘地がない。
日支兩國は唇齒相倚る間柄で、勿論親
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