に節を踰えぬ孔子には似合はず、諸弟子の驚き怪む程激しく慟哭して、「非[#二]夫人之爲[#一レ]慟而誰爲」(先進篇)とさへ極言されて居る。この後ち魯の君哀公や魯の大臣の季康子に、我が弟子のことを聞かれた時、孔子は何れにも、
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有[#二]顏囘者[#一]………不幸短命死矣。今也則亡(先進篇・雍也篇)
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と對へてゐる。孔子がいつまでも顏囘を忘れ得なかつたことがわかる。孔子の生涯の中に、この顏囘の死んだ時ほど氣の毒に思はれる時はない。孔子の晩年は極めて不幸であつた。顏囘と前後してその實子の鯉(伯魚)を喪ひ、また愛弟子の一人なる子路も衞の國難に死んだ。しかし顏囘の死は孔子にとつて第一の不幸で、これが爲に孔子の身神に大なる痛手を受けたこと想像するに餘ある。かくて顏囘の死後三四年にして、我が孔子も世を辭された。孔子の墓は今の山東省の曲阜縣の北郊約十四五町ばかりの孔林の中に在る。孔林とは孔子を始め、その一族の墓地である。

         三 孔子(下)

 最後に孔子の人格について一言を申し添へたい。私は先年『斯文』といふ雜誌の孔子追遠號に、孔子の人格に
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