注意に價する事實と思ふ。
孔子の少時は貧乏に追はれて、可なり生活に苦勞されて居る。この貧苦の間に在つてよく勉學された。一體支那の古代では、四十歳迄は修養の時代で、四十歳前後から仕官するが普通であつた。『禮記』の曲禮にも、四十曰[#レ]強而仕とある。然るに孔子の四十歳前後は、生憎魯國の内亂時代で、魯の君昭公は三桓の爲に放逐せられて、他國に流浪すること七八年に及ぶ。孔子の仕官し得る時機でない。昭公が外國で薨じ、その弟の定公が三桓に擁立されて魯の君となると、間もなく孔子は魯の國に登庸さるることとなつた。孔子の五十歳前後のことと思はれる。
孔子は魯に用ゐらるると、その内治・外交二方面に亙つて、相當に著しい成績を擧げた。外交に於ては絶えず魯を脅迫した、隣國の齊に對して、その不當な要求を斥け、獨立國としての魯の面目をよく保持した。
魯の内治の弊竇は、公族の三桓が政權を握り、國君は虚位を擁して、所謂尾大振はずといふ點にあつた。孔子はこの歴代の弊竇を除去すべく、三桓の諒解を求めて、その權勢を抑制する計畫を實行したが、その計畫成るになんなんとして、一部の反對に遇ひ、九仭の功を一簣に缺くこととなつた
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