だにその當時許りでなく、後世になつても、孔子は殆ど非難されたことがない。儒教に反對する人々でも、孔子には反對せぬ。世界の偉人の中でも、孔子の如く非難反對の尠ない人は稀有と思ふ。我が徳川時代の中世以後に國學が勃興して、所謂日本主義が流行すると共に、あらゆる支那文化に反對することになつた。中にも本居宣長や平田篤胤らは、儒教を攻撃して餘力を遺さず、儒教の所謂聖人といふ聖人に、思ひ切つた罵倒を浴せて居る。併し流石に孔子だけは非難せぬ。或は非難出來なかつたかも知れぬ。兔に角支那嫌ひの國學者達も、孔子だけは何等非難を加へざるのみならず、却つて譽め切つて居る。本居は、
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聖人と人はいへども、聖人の類ならめや、孔子はよき人。
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と詠んで居る。惡口黨の旗頭の平田すら、孔子は心も行も我が師翁其儘だと推服して居る。
 (第四) 孔子は今より二千四百年前の古代に生存せしに拘らず、彼の日常生活の有樣は、不思議にも委細に今日に傳つて居る。『論語』を見ると、孔子その人を目《ま》の邊《あたり》に見る樣な心地がせられ、殊にその郷黨篇には、飮食より坐臥に至る迄、孔子の生活状態を描き出して殆ど遺憾がない。「食不[#レ]語。寢不[#レ]言」とか、「立不[#レ]中[#レ]門。行不[#レ]履[#レ]閾」とか、必ずしも大聖孔子の行爲として、殊に表出するに當らぬ程の平凡な記事が疊見して居る。かかる飾氣のない僞らざる、古代の偉人の日常生活状態の今日に傳はるのは、孔子に限つたことで、之も亦吾人修養の手本として、孔子が他の偉人に勝つて居る點と思ふ。
 要するに孔子は平凡なる偉人たる點、修養によつて向上した經路の尤も明かなる點、人格の圓滿なる點、日常生活の尤も詳細に、又尤も飾氣なく傳はれる點、殊にその終始人間離れをせぬ點、此等の諸點で、他の世界の偉人達と相違して居り、同時に吾人の修養の手本として、尤も適當なる所以と思ふ。吾々の如き平凡な人間でも、努力して修養さへすれば、別段奇蹟の如き筋道を辿らずとも、孔子の樣な位置にまで向上進歩することが出來るといふ、眞實の手本を示す點が、確に孔子に限つた特色である。

         四 諸葛亮(上)

 支那史上の偉人として、私は第一に孔子を擧げ、第二に始皇帝、第三に張騫を紹介したが、始皇帝の事蹟は、已に大正二年一月の『新日本』に載せてあり、又張騫の事蹟も、大正五年二月發行の『續史的研究』中に掲げてあるから(本全集第三卷所收)、茲には始皇帝と張騫との事蹟を掲載することを省略して、直に第四の諸葛亮、即ち諸葛孔明の事蹟を紹介する。
 一體支那人には表裏が多い。看板と實際とは大抵一致せぬ。彼國の梁啓超の如きも、支那通有の一缺點として、好僞を擧げて居る。古來有名な支那の政治家や軍人を見渡しても、心と口と、口と行とは、別々となつて居て、人の反感をそそる樣な人物が多い。この間に在つて、獨り諸葛亮のみは至誠一貫して、その行動に一點の不純をも認めぬ。誰人と雖ども諸葛亮には深厚なる同情を起し、又誰人でも諸葛亮からは至大なる教訓を受けることが出來る。從つて古來人物評をする學者の中に、殆ど一人も諸葛亮を非難した者がない。机上の書生論で、隨分吹[#レ]毛求[#レ]瘢的の評論を好む宋の儒者でも、諸葛亮だけは大抵は無條件で奬推する。張拭(南軒)や朱子の如き、皆彼を推して三代以後の第一人者とする。支那人嫌ひで有名な平田篤胤の如きも、諸葛亮に對しては、最上級の贊辭を惜まぬ。
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此人生涯の行は、唐人ながら篤胤實に間然すること能はず。孔子の後たつた一人の人と思はる。……諸越人の言に、孔子以前無[#二]孔子[#一]。孔子以後無[#二]孔子[#一]といつたが、篤胤は孔子以後唯有[#二]孔明[#一]と思はるることで御座る(『西籍概論』卷三)。
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 さて諸葛亮は字は孔明といふ。瑯邪陽都人といふから、今の山東省沂水縣附近に生れたのである。彼の兄の諸葛瑾は、後に呉に仕へて大臣となり、徳行の高き人で、呉主の孫權に信任せられたこと、殆ど劉備と孔明の如き有樣であつた。諸葛亮は東漢の靈帝の光和四年(西暦一八一)に生れた。早く父を喪ひ、從父の諸葛玄の保護を受けた。その從父が荊州牧劉表の許に世話になつたから、自然諸葛亮も亦荊州に住むこととなつた。やがて從父の死後、彼は襄陽附近の田舍に退隱した。丁度その頃劉備が曹操の爲に逐はれて、荊州の劉表の許に身を託したから、茲に兩人接近の機會が出來た。かの有名なる草廬三顧は、獻帝の建安十二年(西暦二〇七)即ち孔明の二十七歳の時の出來事である。この時孔明は早く已に天下三分の計畫を定めた。曹操は最早天下の十の七を手に入れ、兵士も多く物資も豐で、到底正面から之に抵抗し難い。孫權は東
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