@ 五

 (B)[#「(B)」は縦中横] 張惟驤説の弱點
 張惟驤説は王國維説に比して、一層弱點が多いと思ふ。第一に張惟驤は父司馬談の卒去した元封元年を、司馬遷の年二十の時と斷じ、これが彼の主張の中心をなして居るが、『史記』の太史公自序の本文は、決してかかる推斷を許さぬ筈である。太史公自序に、
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〔年〕二十而南游[#二]江淮[#一]。上[#二]會稽[#一]探[#二]禹穴[#一]。※[#「門<規」、第3水準1−93−57][#二]九疑[#一]。浮[#二]於※[#「さんずい+元」、第3水準1−86−54]湘[#一]。北渉[#二]※[#「さんずい+文」、第3水準1−86−53]泗[#一]。講[#二]業齊魯之都[#一]。觀[#二]孔子之遺風[#一]。郷[#二]射鄒※[#「山+澤のつくり」、第3水準1−47−91][#一]。※[#「戸/乙」、241−12][#二]困※[#「番+おおざと」、第3水準1−92−82]、薜、彭城[#一]。過[#二]梁楚[#一]以歸。於[#レ]是遷仕爲[#二]郎中[#一]。奉[#レ]使西征[#二]巴蜀以南[#一]。南略[#二]※[#「(項−頁)+
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